涼州騒乱とは? わかりやすく解説

涼州騒乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 03:40 UTC 版)

楊阜」の記事における「涼州騒乱」の解説

潼関の戦い曹操敗れた馬超西方逃れたが、その名声により羌族をはじめとした諸蛮族を掌中にし、再起図っていた。この時、楊阜曹操対し韓信黥布の例に擬えて、馬超攻撃対応する防備厳重にするよう進言した。だが、同時期に河間伯らの反乱があったため、曹操は兵を引き揚げてしまった。 その後馬超は隴上への侵攻開始し、冀城を除く諸県馬超呼応した。冀城には韋康や諸郡の太守らが拠ったが、間もなく馬超1万の兵を率いて冀城を攻撃した漢中張魯馬超援軍として楊昂派遣していた。楊阜城内士大夫の子弟の内から、戦争ができる者を1000人ほど集めて即席軍隊とし、従弟の楊岳に城壁の上偃月の陣を敷き馬超抵抗させた。 8ヶ月抵抗した援軍はやって来なかった。韋康閻温援軍使者として城外出したが、馬超に見つかり殺害されてしまった。色を失った韋康らが降参考えるようになると、楊阜は涙を流してこれを諌めたが、聞き入れられなかった。結局韋康らが城門開いて馬超和議結ぼうとしたが、馬超は楊岳を冀城で軟禁する一方楊昂命じて韋康らを殺害させた。 このため楊阜馬超への復讐機会窺っていた。丁度、妻の葬儀があったため、これを理由として一時的に帰郷した。まず、歴城にいる姜叙と連絡をとり、姜叙とその母の前で無念気持ち述べたところ、姜叙の母は強く同情し、姜叙に楊阜馬超打倒計画参画するよう熱心に奨めた。趙昂尹奉といった同郷人らや、武都人々連絡をとり、冀城の楊岳の元にも楊謨を送り計画打ち明けた安定寛や南安の趙衢といった有力者同心とした。 212年9月楊阜鹵城において姜叙と共に馬超打倒兵を挙げた馬超直ち楊阜攻撃しようとしたが、かねての計画通り寛や趙衢らは冀城を襲撃し、楊岳の身柄奪い返した上で、冀城を占拠した。 この反乱で、歴城にいた姜叙の母や馬超人質となっていた趙月(趙昂王異の子)が馬超殺害され皇甫謐列女伝』)、さらに楊阜一族7人が馬超によって殺され楊阜自身重傷負った214年春正月までには夏侯淵援軍得て馬超撃退し漢中放逐し馬超が冀城に留守として置いていた妻子一族を、全て処刑したという(「武帝紀」)。 隴右平定功績により、曹操11人の者を列侯した。曹操楊阜関内侯封じようとしたが、楊阜韋康らを守れず、馬超殺害できなかった事を理由辞退した。しかし、曹操何度も位を与えようしたため遂に応じた

※この「涼州騒乱」の解説は、「楊阜」の解説の一部です。
「涼州騒乱」を含む「楊阜」の記事については、「楊阜」の概要を参照ください。

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