流浪の生活とは? わかりやすく解説

流浪の生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/12 07:23 UTC 版)

ジェム・スルタン」の記事における「流浪の生活」の解説

カイロでは、兄バヤズィト2世から帝位諦め見返りとして、100万アクチェ(英語版分の銀貨の提供を申し入れる文書受け取るが、ジェムはこれを拒否して翌年アナトリア出兵する1482年5月27日コンヤ攻囲するが、支持者であるアンカラ知事トラブゾンル・メフメト・ベイが戦死しアンカラに引き下がらざるを得なくなった遠征断念してカイロ戻ろうとするが、エジプトへの道のりはすべてバヤズィト2世の手落ちていた。 そうこうしているうちに聖ヨハネ騎士団団員ピエール・ドビュッソン(英語版)に招かれ6月29日賓客としてロドス島訪れたジェムフランス王ルイ11世仲介によってハンガリー王マーチャーシュ1世同盟締結することを試み騎士団員と共にフランス渡ったジェム乗せた船がロドス島発った時、バヤズィト2世ヴェネツィア共和国ジェム奪還依頼したが、成功しなかった。バヤズィト2世フランス使者送り、弟の身柄ヨーロッパ留め置くことを要求し身代金代わり純金例年支払うことに同意している。また、マムルーク朝多量金貨引き換えジェムを渡すよう交渉していた。後に、ジェムフランス教皇庁取引結果ローマ送られることになった教皇インノケンティウス8世は、ジェム利用して新たな十字軍遠征組織計画するが、ヨーロッパ諸国王侯貴族から拒否された。またインノケンティウス8世ジェムキリスト教への改宗持ちかけたが、ジェムはこれを拒否している。いずれにせよバヤズィト2世バルカン半島キリスト教諸国への遠征目論む限りジェム身柄はいつでも利用されたのであり、教皇はこの帝位請求者解放すると言って威圧したフランス王シャルル8世イタリア遠征実施した際、シャルル8世教皇庁ジェム引き渡し求めジェムフランス引き渡された。シャルル8世ナポリ遠征従軍するが、1495年2月25日カプアにて他界した当時教皇アレクサンデル6世実家であるボルジア家によって毒殺されたとする見解存在する。 弟の死を受けてバヤズィト2世3日間の服喪宣言した。またバヤズィト2世は、ジェム亡骸イスラム教則って葬るように要求したが、亡骸は、死後4年たってようやくオスマン帝国戻されもう一人の兄ムスタファトルコ語版)の墓所埋葬された(ジェム・スルタンの墓(トルコ語版))。

※この「流浪の生活」の解説は、「ジェム・スルタン」の解説の一部です。
「流浪の生活」を含む「ジェム・スルタン」の記事については、「ジェム・スルタン」の概要を参照ください。

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