河村秀根とは? わかりやすく解説

かわむら‐ひでね〔かはむら‐〕【河村秀根】

読み方:かわむらひでね

[1723〜1792]江戸中期国学者尾張の人。通称は復太郎歌学学びまた、神道故実を主に古典研究した。著「日本書紀集解」など。


かわむらひでね 【河村秀根】

江戸中期国学者名古屋藩士。号は庵。吉田神道学び『日本書紀』研究二男の益根の協力で『書紀集解』を著した。兄秀穎も国学者で『歴代徒刑考』などを著している。(一七二三~九二)

河村秀根

読み方かわむら ひでね

徳川中期国学者。号は庵・曲州・上野山人。河村秀穎の弟。尾張生。和歌冷泉為村・同為恭に学ぶ。『日本書紀』研究傾倒しその分野では博通で知られ著述従事した著書に『書紀集解』『歌集』等がある。寛政4年(1792)歿、70才。

河村秀根

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 01:31 UTC 版)

河村 秀根(かわむら ひでね、享保8年10月12日1723年11月9日) - 寛政4年6月26日1792年8月13日))は、江戸時代中期の尾張藩士。国学者。子に、河村殷根・河村益根。

経歴

河村秀世の次男。はじめ尾張藩主徳川宗春の嫡男国丸に小姓として仕える。国丸没後、宗春の小姓として仕える。宗春が、将軍徳川吉宗によって謹慎させられると、秀根も非役となる。その後、謹慎の解けた宗春に再び仕え、宗春の死後、兄の河村秀穎とともに、有職故実などの研究著作を経てのち、『日本書紀』の研究をはじめる。 ち 兄・秀穎、長男・殷根の死を乗り越え、『書紀集解』の執筆を続ける。

殷根・益根兄弟も、父の研究の助手を行い、代表的は著作である『書紀集解』の出版は、ほとんどが益根の手によるものである。

墓は平和公園内の法輪寺墓域にある[1]。戒名「葎庵秀根居士」

名古屋市長で地域政党減税日本の代表でもある、元民主党衆議院議員の河村たかしの先祖にあたる[2]

また、河村秀根の先祖は相模国(現神奈川県足柄上郡山北町)にある河村城を根城にしていた河村一族。南原の戦いで足利尊氏との戦いで滅ぼされ、残された河村氏の一族はバラバラに散り、秀根の先祖の方は後に駿河国(現静岡県)に辿り着いて暮らしていた。その後、駿河で暮らしていた、秀根の先祖の子孫は、駿河を治めていた徳川家康に誘われ、関ヶ原の戦いに東軍として参加し、その後、家康から尾張で500石~800石を与えられ、以後河村の一族は尾張藩に仕えていったとされている。

主な著作

  • 『書紀集解』
  • 『書紀類註』
  • 『日本書紀聚財』

関連項目

参考文献

  • 千種区婦人郷土史研究会 編『千種区の歴史』愛知県郷土資料刊行会、1981年。 

外部リンク

脚注

  1. ^ 千種区婦人郷土史研究会 1981, p. 133.
  2. ^ 歴史好き河村市長の先祖は書物奉行 今も蔵書四千冊公開 - CHUNICHI Web 中日新聞 2009年6月22日



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