毛利氏による築造から藩政期まで
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「元安橋」の記事における「毛利氏による築造から藩政期まで」の解説
最初の架橋年度は不明であり、安土桃山時代に毛利輝元が広島城下を整備した時に架橋され、橋名を「元康橋」に名づけられたと伝えられている。橋名の由来は、輝元の叔父である毛利元康(末次元康)が架橋工事を指揮したため、あるいは元康の屋敷に続く通りに架けられたためとも言われる。 なお輝元は1589年(天正17年)3月から現地調査、1590年(天正18年)末に広島城ほぼ竣工、1591年(天正19年)1月8日に入城、1600年(慶長5年)長州藩に転封している。よってこの橋の架橋年度は1589年から1590年代初期と推定される。さらに元康は1592年(文禄元年)文禄・慶長の役に出陣していることから、もし元康が工事を指揮していたのなら1589年から1591年の間に架橋されたことになる。江戸時代に書かれた毛利氏時代の町割絵図の『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』には輝元入城の1891年に架けられた猿猴橋と京橋とともに描かれていることから、その2橋と同時期に架橋された可能性がある。 いくつか小集落があったがほとんど何もない海辺だったこのあたりも、築城に伴い城下町が整備され、商工業者が集まり経済が活性化され、船着場が出来て盛んな交易が行われた。 毛利氏の後に入封した福島正則の藩政時代に、山陽道(西国街道)を城下に引き込みこの橋は西国街道筋の橋となった。 当時は防犯上の理由により橋の架橋は制限されており、この橋は元安川に唯一架けられた西国街道筋の橋となった。1644年(正保元年)ごろ作成の『正保城絵図』中の「安芸国広島城所絵図」(右参照)では「元安川」表記であることから、それより前の江戸時代初期には現在の橋名に改められていると考えられる。 江戸時代の治水状況から考えると数度落橋した可能性がある。例えば1796年(嘉永8年)、城下を襲った洪水では右岸側の中洲最上流部が決壊し中島町全域で床上浸水し、元安橋も落橋した記録が残っている。
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