毛利氏による築造から藩政期までとは? わかりやすく解説

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毛利氏による築造から藩政期まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 01:37 UTC 版)

元安橋」の記事における「毛利氏による築造から藩政期まで」の解説

最初架橋年度は不明であり、安土桃山時代毛利輝元広島城下を整備した時に架橋され、橋名を「元康」に名づけられたと伝えられている。橋名の由来は、輝元の叔父である毛利元康末次元康)が架橋工事指揮したため、あるいは元康屋敷に続く通りけられたためとも言われる。 なお輝元は1589年天正17年3月から現地調査1590年天正18年)末に広島城ほぼ竣工1591年天正19年1月8日入城1600年慶長5年長州藩転封している。よってこの架橋年度は1589年から1590年代初期推定される。さらに元康1592年文禄元年文禄・慶長の役出陣していることから、もし元康工事指揮していたのなら1589年から1591年の間に架橋されたことになる。江戸時代書かれ毛利氏時代町割絵図の『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割神社仏閣割共図』には輝元入城1891年けられた猿猴橋京橋とともに描かれていることから、その2同時期に架橋された可能性がある。 いくつか小集落があったがほとんど何もない海辺だったこのあたりも、築城に伴い城下町整備され商工業者集まり経済活性化され船着場出来て盛んな交易が行われた。 毛利氏の後に入封した福島正則藩政時代に、山陽道西国街道)を城下引き込みこの西国街道筋のとなった当時防犯上の理由により架橋制限されており、この元安川唯一けられた西国街道筋のとなった1644年正保元年)ごろ作成の『正保城絵図』中の「安芸国広島城絵図」(右参照)では「元安川表記であることから、それより前の江戸時代初期には現在の橋名に改められていると考えられる江戸時代治水状況から考えると数度落橋した可能性がある。例え1796年嘉永8年)、城下襲った洪水では右岸側の中洲最上流部が決壊し中島町全域床上浸水し、元安橋落橋した記録残っている。

※この「毛利氏による築造から藩政期まで」の解説は、「元安橋」の解説の一部です。
「毛利氏による築造から藩政期まで」を含む「元安橋」の記事については、「元安橋」の概要を参照ください。

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