武田氏の領国拡大と本拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 19:06 UTC 版)
戦国期に守護甲斐武田氏は本拠の石和(笛吹市石和町)から甲府へ進出して川田(甲府市川田町)に居館を移転した。信虎期には甲斐国内を統一し戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町(武田城下町)を形成した。 晴信(信玄)期には領国拡張と平行して城下の整備拡張が進み、政庁としての役割を持つ府中として機能している。続く武田勝頼時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野、駿河へと拡大した武田氏の領国統治にとって不備であったため、府中の移転が企図されたと考えられている。 新府城が位置する韮崎は盆地北西端に位置しているが、戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。
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