武田氏の滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:53 UTC 版)
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、信濃北部・川中島四郡は織田信長の家臣・森長可の支配下に入ったため、屋代氏も森長可の与力となったと思われるが、極めて短期間(2から3カ月)であったため記録はない。同天正10年(1582年)6月の本能寺の変により森長可が信濃を去った後(「天正壬午の乱)」、真田昌幸らと北条氏にくみしたこともあったが越後の上杉景勝に臣従し塩崎と屋代、八幡、戸倉、上山田、坂城に至る広域を領有した。天正10年(1582年)松代の海津城に入った村上国清(村上義清の子・山浦景国とも)の副将として屋代秀正が二の丸に入ったと記録にあるように景勝からは厚遇されていた。 しかし屋代氏の離反が村上氏没落の一端であったこともあり主将景国との関係は良好とは言えず、徳川対上杉の代理戦争である小笠原氏との戦闘に上杉側として従軍しながら秘かに徳川家康と気脈を通じていた。天正12年(1584年)4月1日に屋代秀正は室賀満俊とともに上杉氏から突然離反し荒砥城に引篭もり徳川氏に臣従する。しかし村上国清ら上杉勢に攻められて荒砥城を支えきれずに逃亡、徳川氏の下に身を寄せることになった。
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