横濱護謨製造(現・横浜ゴム)の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:10 UTC 版)
「古河財閥」の記事における「横濱護謨製造(現・横浜ゴム)の設立」の解説
古河電気工業の前身の1つである横浜電線製造は、電線製造業に携わる中で電線被覆用ゴムのほかに工業用ゴムの製造を×行なっていた。1913年(大正2年)頃、横浜電線製造の常務取締役として赴任していた中川末吉(後に古河電工社長、横浜ゴム社長)は、工業用ゴムの将来性を高く評価して、高級ゴム製品の製造を目標とし、外国技術の導入・外国企業との提携の機会を企図していた。 一方、東京において営業所を設け自動車用タイヤチューブ・工業用ゴム・一般用ゴム製品の輸入・販売を営んでいたアメリカのグッドリッチ(BFGoodrich)は、かねて東洋に製造工場を設置することを模索していた。そして、古河財閥が国内におけるゴム製品の市場予測や提携相手先の調査をしていた動向を知ったグッドリッチの東京営業所代表から、中川末吉に両社共同による工場設置案を提案してきた。1917年(大正6年)6月、グッドリッチの本社代表が来日し古河財閥側と折衝、技術はグッドリッチが提供し、経営は古河側が担当するという基本骨子で覚書が調印された。引き続いて1917年(大正6年)10月、新会社「横濱護謨製造」(現・横浜ゴム)が設立された。なお、取締役会長には古河鉱業(現・古河機械金属)の中島久万吉が就任した。 1923年(大正12年)9月に関東大震災が発生、平沼工場は完全に崩壊・焼失した。1924年(大正13年)3月にグッドリッチ副社長(横濱護謨製造取締役を兼務)レーモンドが来日し、当初、工場再建を断念する意向を表明していたが、平沼工場を訪問した際に、焼け跡の整理・機械の手入れに専念する従業員の真摯な姿に感動し翻意市、漸進的再建方策に合意した。 引き続いて、当時の社長・中川末吉の強力な指揮のもと、グッドリッチの横濱護謨製造再建に関する危惧に対して、日本市場の将来性と事業継続の有望性を粘り強く説得して、1925年(大正14年)にグッドリッチと工場の再建計画についての合意が成立、工場は再建され、その後、満州事変(1931年(昭和6年))期を経て経営は発展的な軌道に乗った。×
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