横川省三 よこかわ しょうぞう
盛岡生まれ。新聞記者。父は盛岡藩士。自由民権運動に投じ、加波山事件に連座して禁錮。明治23年(1890)東京朝日新聞社に入社、郡司成忠の千島探検の特派員、日清戦争では従軍記者となる。のち清国に渡航して北京の東文学舎に入る。日露戦争前に軍事探偵として諜報活動に従事、37年(1904)日露戦争勃発後、沖禎介らとともに満州に入り、鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で銃殺。
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横川省三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 03:18 UTC 版)
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横川 省三(よこかわ しょうぞう、元治2年4月4日(1865年4月28日) - 明治37年(1904年)4月21日)は明治期の新聞記者。スパイ。ロシア軍に捕縛され処刑された。南部盛岡藩の出身。初名は勇治。勇次のペンネームで活動することもあった。旧姓は三田村、山田(兵役逃れ目的で「徴兵養子」となったためである。「俺は今日から山田勇治じゃ。徴兵にゃ行かんぞ」と吹聴している[1])。
生涯
若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。また、1887年には保安条例施行に伴い、伊東圭介と共に皇居周囲三里以内から追放された。
その後朝日新聞の新聞記者として、郡司成忠の千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などの活動をする。その後記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。この間に娘が二人生まれたが、妻を亡くしている。
日露戦争開戦に際しては弟に娘を預け、北京公使館の内田康哉清国公使に招かれ、青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事する。ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満州に潜伏する。
逸話
- 日清戦争の際に従軍記者として戦艦の搭乗を希望したが、許可おりなかったが、「僕を機械の一部と思ってください」と頼み艦長を説得させた。
- 最初の遺言で所持金を娘に託そうとしたが公金であるため、寄付に変更した。
- 後に横川省三の死刑執行官シモノフは、ロシア革命後、日本に亡命し、長女の律子に父の最期を伝えた。
- 大正13年(1924年)、従五位を追贈された[2]。
石碑等
その他
- 映画『二百三高地』(昭和55年東映製作 舛田利雄監督)は、横川と沖の処刑シーンから始まる。横川を早川純一、沖を村井国夫が演じた。このシーンはテレビ版にも流用された(ノンクレジット)。
- 盛岡市北山2丁目聖寿禅寺と青山霊園に墓がある。
脚注
- ^ 田中彰 『明治維新』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061595842、361-362p
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.53
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