椙杜隆康とは? わかりやすく解説

椙杜隆康(すぎもり たかやす) ????~????


椙杜隆康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/18 04:48 UTC 版)

 
椙杜 隆康
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:十郎[1]、左兵衛[2]
法名:宗念[1]
官位 右京亮[1]信濃守[1]
主君 大内義隆義長毛利隆元輝元
氏族 三善姓太田氏椙杜氏[1]
父母 父:椙杜房康[1]
兄弟 隆康桑原元勝[1]元種[1]、内藤次郎右衛門尉[1]、女(櫛部越中守室)[1]、女(吉井右京亮室)[1]、女(飯田元著室)[3]、女(沓屋志摩守室)[3]、女(浅海伊豆守室)[3]、女(高井左馬允室)[3]、女(緒方喜兵衛室)[3]
安富左兵衛尉の娘[3]
実子:女(椙杜元縁室)[3]
養子:毛利元秋末次元康元縁[3]
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椙杜 隆康(すぎのもり たかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大内氏、後に毛利氏家臣で周防蓮華山城主。父は椙杜房康。弟に桑原元勝椙杜元種、内藤次郎右衛門尉がいる。嫡男がいなかったことから、毛利元就の五男・元秋や八男・元康志道元保の次男・元縁を養子に迎えている。

生涯

大内氏家臣時代

周防国玖珂郡椙杜郷[注釈 1]を本貫とする国人である椙杜房康の子として生まれる[4]。周防国の大名である大内義隆に仕え、義隆から「隆」の偏諱を与えられたと考えられている。

天文20年(1551年)の大寧寺の変において大内義隆が陶隆房(後の陶晴賢)らによって弑逆され、大友氏から迎えられた大内義長が大内氏当主となると、それに従った。

天文22年(1553年)、備後国三谿郡の旗返城主・江田隆連の大内氏離反に乗じて尼子晴久が備後国に出陣して毛利元就と戦うと、同年5月に元就への援軍として隆康が派遣された[4][5]

防長経略と毛利氏への帰属

天文24年(1555年10月1日厳島の戦いで毛利軍が勝利し陶晴賢が討死すると、毛利元就は続けて周防国へと侵攻して防長経略を開始。元就は周防侵攻の手始めとして、同年10月8日に使僧を椙杜房康と隆康・元種兄弟のもとに派遣し、厳島の戦いにおいて陶晴賢や弘中隆包らをはじめとする陶軍を殲滅したと戦果を伝えて毛利氏への帰属を勧告した[6][7]。隆康は元就の勧告を受けて、山口へ出陣の際に先鋒を務めることを約すると共に人質を出して毛利氏に服属し、岩国に在陣する毛利元就・隆元父子と面会した[8][9]

また、同じ頃に近隣の鞍掛山城主・杉隆泰祖生領主・小方隆忠も毛利氏に降伏した[10]が、杉隆泰は密使を山口へ派遣して大内義長に救援要請を行おうとした[11][12][13]。この動きを察知した隆康は杉隆泰の降伏が偽りであると元就に注進し、それを受けた元就は先手を打って、10月27日に鞍掛山城を急襲した鞍掛合戦において杉隆泰を討ち取った[11][12]。なお、享保2年(1717年)に岩国藩家老香川景継によって出版された軍記物の『陰徳太平記』では、隆康と杉隆泰は元来不仲で、互いに敵視して何かと問題を起こしていたと記されており、毛利氏に服属した杉隆泰が大内義長に救援を求めることを予見した隆康が家臣を高森差川に派遣して杉隆泰の密使のを待ち構えて捕縛した逸話が記されている[8][14]

隆康は毛利氏への服属と、杉隆泰攻めの功を賞されて、10月28日に元就と隆元から杉隆泰の遺領の内の玖珂郡北方500貫の地を与えられた[15][16][17]。さらに同年閏10月18日には、無二の覚悟で毛利氏に味方した功について、今後元就と隆元自身のみならず、毛利家としても忘却することはない旨の起請文が隆康、父・房康、弟・桑原元勝の3人に宛てて送られている[16][18]

この後も元就の防長経略において、玖珂郡祢笠の土寇討伐で活躍した。

弘治2年(1556年)に玖珂郡北方の仏成寺(後の浄信寺)とその鎮守社である白山比咩神社が兵火で焼亡したため、永禄元年(1558年)に隆康は散仕の六郎左衛門を普請奉行として白山比咩神社の宝殿を再建した[19]。さらに、社家の新右衛門を普請奉行として元亀2年(1571年)には白山比咩神社の拝殿を上棟し、天正4年(1576年)9月に遷宮が行われた[19]

永禄4年(1561年8月20日厳島神社月毛1疋を奉納し、厳島神社と関係が深い大願寺が受領した[20][21]

豊前国の山賀城攻めにおける大友氏との戦いにおいても、城から打って出た敵兵の攻撃を受け止め、先手の武者2、3人を討ち取る手柄を立て、小早川隆景から感状を与えられたという[22]

三度の養子縁組

隆康には嫡男がいなかったため、毛利元就に懇請して元就の五男である元秋を養子に迎えた[23]。元秋を養子に迎えた具体的な時期については不明だが、永禄10年(1567年2月9日に医師の曲直瀬道三が毛利元就、毛利輝元小早川隆景吉川元春、元秋に宛てて送った意見書[24]の宛名に「椙杜元秋公」と記されていることから、この頃までには元秋を養子としていたことが分かる[23]

しかし、元秋は永禄11年(1568年6月10日尼子氏の本拠地であった出雲国の月山富田城への在番を命じられ、同年12月19日には出雲国に知行地も与えられたことで元秋と椙杜氏の養子縁組が解消となり、元秋に代わって元就の八男である元康が養子となった[15]。その後、毛利元秋の療養により、元秋の名代として短期間ながら元康が椙杜家の家督を保持したまま月山富田城に在番することとなったが、元康が椙杜家の家督を保持したままであったことが問題視されたため、元康との養子縁組も解消されることとなった[23]

元康との養子縁組も解消となった隆康は、毛利氏の重臣・志道元保の次男である志道元縁との養子縁組を毛利輝元に要請し、輝元は天正7年(1579年4月28日に志道元縁に対し、隆康との養子縁組を打診。同年6月3日には輝元が隆康に対して、元縁が家督を同心すれば承認する旨を通知[25]し、天正8年(1580年2月1日に隆康が志道元縁を婿養子として迎え、家督を継がせた[15][26][27]

没年は不詳。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 224.
  2. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」家譜。
  3. ^ a b c d e f g h 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 225.
  4. ^ a b 周東町史 1979, p. 163.
  5. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 156.
  6. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」第1号、天文24年(1555年)比定10月8日付け、椙杜善兵衛尉(元種)殿・椙杜右京亮(隆康)殿宛て、(毛利)元就書状。
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 227–228.
  8. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 228.
  9. ^ 岩国市史 上 1987, pp. 137–138.
  10. ^ 周東町史 1979, p. 164.
  11. ^ a b 岩国市史 上 1987, p. 138.
  12. ^ a b 新南陽市史 1985, p. 278.
  13. ^ 周東町史 1979, p. 161.
  14. ^ 玖珂町誌 1972, p. 66.
  15. ^ a b c 周東町史 1979, p. 168.
  16. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 229.
  17. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」第2号、弘治元年(1555年)比定10月28日付け、椙杜右京亮(隆康)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署書状。
  18. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」第4号、弘治元年(1555年)比定閏10月18日付け、椙杜右京亮(隆康)殿・桑原源太郎(元勝)殿・椙杜若狭入道(房康)殿宛て、毛利隆元・同右馬頭元就連署起請文。
  19. ^ a b 周東町史 1979, p. 203.
  20. ^ 廿日市町史 史料編1(古代・中世) 1979, p. 261.
  21. ^ 『大願寺文書』神馬請取覚。
  22. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」第25号、椙杜氏由緒書。
  23. ^ a b c 石畑匡基 2019, p. 48.
  24. ^ 『毛利家文書』第864号、永禄10年(1567年)2月9日付け、毛利元就公・同輝元公・小早川隆景公・吉川元春公・椙杜元秋公宛て洛下雖知苦齋道三意見書。
  25. ^ 『閥閲録』巻30「椙杜伊織」第19号、天正7年(1579年)比定6月3日付け、椙杜信濃守(隆康)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  26. ^ 周東町史 1979, p. 225.
  27. ^ 石畑匡基 2019, pp. 48–49.

参考文献




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