東方における継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:33 UTC 版)
「ビザンツ帝国」または「ビザンティン帝国」という用語は今日では、西方における帝国の崩壊にともなって、東地中海において残存したローマ帝国の東方部分を呼ぶために用いられている。この東方帝国はローマ法を利用し続けた。そもそもユスティニアヌス帝がローマ法を Corpus Juris Civilis(市民法大全) において形式化したのは、ローマ帝国の支配者としてであった。7世紀以降帝国政府の使用言語がラテン語からギリシア語に移行したために、市民法大全に基づく法典が時代が下ってギリシア語で編纂されることとなった。もっともよく知られているのは以下のものである: エクロゲー法典((英語版)(740年)‐レオーン3世によって編纂された プロキオン及びエパナゴゲ(879年頃)‐バシレイオス1世によって編纂された。更に バシリカ法典(英語版)(9世紀後半)- バシレイオス1世によって開始され、レオーン6世によって完了した バシリカ法典はユスティニアヌスの完全な縮約だった。60巻もあることで、裁判官や法律家には使い難いものだった。より短く手軽なものが必要とされていた。これは最終的に1345年にテッサロニキから来た裁判官のコンスタンティノス・ハルメノプーロス(英語版)によって作成された。彼は Hexabiblos(ヘクサビブロス)と呼ばれる、バシリカ法典を6冊にした短縮版を作った。これは広くバルカン半島中で、続くオスマン帝国時代の間にも利用され、1820年代のギリシャ第一共和政のための最初の法典として使われた。セルビアの法律と文化はローマとビザンツの基礎の上に打ち建てられた。最も重要なセルビアの法典は、ザコノプラヴィロ(英語版)(1219年)とドゥシャン法典(1349年と1354年)で、これらは、市民法大全に含まれるローマ-ビザンツ法を移植(英語版)したものだった。これらのセルビア法典はセルビア専制公国(英語版)が1459年にオスマン帝国に滅ぼされるまで利用された。セルビア蜂起でのオスマン朝からの解放後、1844年にセルビア市民法典が編纂されるまでローマ法が利用され続けた。セルビア市民法典は、市民法大全を基礎として編纂されたオーストリア民法典(英語版)の縮約版だった。
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