東方の戦場として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 19:27 UTC 版)
「メソポタミア属州」の記事における「東方の戦場として」の解説
メソポタミアには属州の存在こそ残ったものの、この地域はローマ帝国と東方のサーサーン朝の間の度重なる戦争の舞台となった。ローマ帝国が六皇帝の年の内戦で荒れている隙に、パルティアを滅ぼしたサーサーン朝の創始者アルダシール1世 (在位: 224年–241年)が239年にメソポタミアに侵攻、征服した。しかし243年、ティメシテウスがレサエナの戦いで勝利し、メソポタミアを奪回した。250年代、サーサーン朝のシャープール1世 (在位: 240年ごろ–270年)がメソポタミアに侵攻した。彼は260年にローマ皇帝ウァレリアヌス (在位: 253年–260年)をエデッサの戦いで破り、捕虜とした。しかし翌年にはパルミラのセプティミウス・オダエナトゥスに大敗を喫し、メソポタミアから撃退された。
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