木村定跡
木村定跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 02:39 UTC 版)
第1図 角換わり相腰掛け銀の先後同形△持駒 角 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 王 桂 香 一 飛 金 金 二 桂 歩 銀 歩 三 歩 歩 歩 銀 歩 歩 歩 四 歩 歩 五 歩 歩 歩 銀 歩 歩 歩 六 歩 銀 歩 桂 七 金 金 飛 八 香 桂 玉 香 九 ▲持駒 角38手目△3三銀まで 詳細は「木村定跡」を参照 プロの角換わりは指し手が限定されるため、両者が慎重に駒組みを進めていく。その結果、40手目△2二玉までに駒組みが限界にまで達して手詰まりになる。ここで先手が攻めなければ千日手(すなわち先後交替で指し直し)なので、41手目に先手が攻撃開始を余儀なくされる。この攻めが成立するかが角換わり戦法の焦点となった。昭和30年代、この形に結論を出したのが木村義雄であった。現在では、41手目から▲4五歩以下の先手の攻めは、後手の投了近くまで研究がなされている。この41手目からの一連の指し手は木村定跡と称される。 木村定跡で先手優勢(先手勝勢に近い)であるため、絶対に後手はこの形にできない。そのため39手目先手の▲8八玉の後、40手目に後手から攻め込まざるをえない。こうすると、木村定跡の応用で後手が指せることが分かった。つまりこの定跡は先手▲8八玉の悪手に後手が△2二玉の大悪手で返す形が前提だった。よって双方が矢倉囲いの中に玉を動かす前である39手目(現在の角換わり腰掛け銀同型、第1図)に先手が攻め込んだらどうなるかが課題となった。まだ昭和30年代には精緻な研究が成されていないものの、若干先手が指せるという見解が強かった。その後後述の富岡流によって一連の変化では先手勝勢、その他の変化でも先手が有利とされている。そのため、後手はひたすら千日手を狙う専守防衛の構えをとった。第1図は『イメージと読みの将棋観2』(2010年、日本将棋連盟)では2009年から2010年だけでも20局近く指される居飛車党にとって重要テーマとなっているが、平成以降から2010年までに先手戦績が160勝110敗、5割9分2厘となっていて、1998年以降に限っても先手の26勝15敗となっており、2010年以降は、この後手陣の撃破が困難なため、第1図の角換わり戦法の局面は採用されなくなった。どうしても先手が攻めて後手が受けに回るという展開がはっきりしているためもあり、先手の作戦に対してすべて対応する必要があるが、過去にある重要手順や定跡は一通り後手の受けが確立し研究も進んでおり、新たな手順がなければ先手をもって確実には攻めきれないことも分かっている。このため数十年以上長きにわたり指されているということで、それだけ難しい将棋であるとされている。 藤井猛はこの将棋は何か1手新手が発見されるとがらりと評価が変わるため、後手も5割勝てると思わなければこの局面を避ける、棋士全員でこの局面を指せば先手の勝率は6割はいく、素人同士で指せば間違いなく先に攻めた方が有利となるとしている。
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