望夷宮の変とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:23 UTC 版)
『史記』始皇本紀における胡亥の死に関わる事変である「望夷宮の変」については、該当項目を参照。 ここでは『史記』李斯列伝に記述された『史記』始皇本紀とは内容の異なる「望夷宮の変」について記載する。なお、指鹿為馬の故事にかかる記述についても、『史記』始皇本紀と異なるため、あわせて、ここに記載する。 ある時、趙高は胡亥に鹿を献じて、「馬です」と言った。胡亥が左右の家臣に「これは鹿ではないのか」と問うた。家臣は皆、「馬です」と言った。胡亥は、自分の気がおかしくなったのではないかと考え、太卜(卜筮官の長)を召して、占わせた。太卜は言った。「陛下(胡亥)は春秋の郊祀(郊外での皇帝の天地の祭り)と宗廟の祖霊への奉仕において、斎戒(神々を祭る時、女性との交わりや飲酒を控え、身を清めること)が十分ではありません。そのため、このようなことになったのです。徳を高めて、斎戒を十分にしてください」。そこで、胡亥は上林苑(皇帝の苑)に入って斎戒に努めた。毎日、遊び・狩りを行っていたところ、上林苑の中に入っている人がいた。胡亥は自ら、その人を射殺した。 趙高は、(趙高の)娘婿である咸陽令の閻楽に「何者かが人を殺して、上林苑に移した」として取り調べを行わせた一方、胡亥を諫めた。「天子が理由もないのに、無辜の人を殺したとは、上帝(天帝)が禁じていることです。祖霊も祀りをうけいれず、天はいまにも(胡亥に)災いをくだすでしょう。遠く咸陽宮を避けて、御払いをなさるべきです」。そこで、胡亥は皇居から出て、望夷宮へと移った。 胡亥が望夷宮に留まり、3日経ったところで、趙高は(胡亥の)詔を偽って、衛士に服喪の白い衣を着せて武器を持たせ、望夷宮へ入らせた。趙高は望夷宮に入って、胡亥に告げた。「山東の群盗の兵が大勢来ました!」。胡亥は楼の上に登って、兵たちを見て、恐れおののいた。趙高に脅された胡亥は、自殺をした。享年は24歳、もしくは15歳とされる。 趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄 である子嬰に玉璽を渡す。 同年9月、趙高により、子嬰は秦王に即位する。胡亥は、庶民の礼式で、杜南の宜春苑の中に葬られた。 子嬰は趙高を殺し、趙高の三族を皆殺しにした。 高祖元年(紀元前206年)、子嬰は咸陽に攻めてきた劉邦に降伏した。これにより、秦は滅びた。
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