最後の大仕事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:00 UTC 版)
その頃、札幌市内の豊平橋は、かつて師ホイーラーが架設した木鉄混合トラス橋も、勇の一番弟子岡崎文吉による初代鉄橋も、洪水により落橋するなどして10年以上仮設状態のままになっていた。勇は技師の山口敬助と技手の高橋勝衛への設計指導に当たり、1924年(大正13年)、豊平橋は3連のブレースト・リブ・タイド・アーチによるアーチ橋として完成した。この2代目鉄橋は20年以上の長きに渡り、札幌の街並みと調和して市民に愛され、旭橋(旭川市、現存。設計指導は勇の教え子、吉町太郎一)・旧幣舞橋(釧路市、解体済)とともに「北海道三大名橋」と称された。架け替えに際して1964年(昭和39年)解体されたが、北海道開拓記念館に模型が残っている。 1928年(昭和3年)10月1日、狭心症により自宅にて急逝した。勇は生涯クリスチャンであり、死の4ヶ月前にも内村や新渡戸とともに宣教師ハリスの墓前祈祷会に参列していた。葬儀は生涯の友であった内村鑑三の司式により行われ、内村は弔辞の中で「廣井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。…『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深い心配があったのであります。そしてその良心その心配が君の工学をして世の多くの工学の上に一頭地を抽(ぬき)んでしめたのであります。君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆とを永久に益したのであります。広井君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。」と述べた。 1929年(昭和4年)10月、小樽港を見下ろす公園に序幕された勇の胸像は、戦時中の金属供出によって撤去されたが、1953年(昭和28年)彫刻家中野五一の手によるものとして再建。1999年(平成11年)8月、運河公園に移設序幕されて、今も100年を超えた自らの畢生の作を見守っている。
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