日本宣教史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 07:42 UTC 版)
「日本のキリスト教史」も参照 日本は17世紀以来、禁教令によるキリシタン弾圧が徹底し宣教の術がなかったが、状況が変わり始めたため、1831年に福音宣教省の委託により、パリ外国宣教会は日本へ再宣教の準備を開始した。1844年(弘化元年)にテオドール=オギュスタン・フォルカード神父が琉球に入り、日本語を勉強しながら日本入国の機会を狙った。1858年(安政5年)、幕府は米・英・蘭・露・仏5か国と修好通商条約を締結し、外国人居留地内に限って教会建設を認めた。 これを受け、宣教会は1859年(安政6年)の横浜開港時に日本再宣教のため、ジラール神父らを日本に送った。同年9月、ジラール神父が横浜に上陸。1862年には近代日本で初の教会となる横浜天主堂(カトリック山手教会初代聖堂)が、横浜・山手の横浜居留地80番地(現:横浜市中区山下町80)で献堂された。 1863年にルイ・テオドル・フューレ神父が長崎に赴いた。1864年(元治元年)12月29日、長崎に大浦天主堂を完成し、フューレ神父にかわって天主堂を完成させたベルナール・プティジャン神父が初代主任司祭となった。その3か月後の翌1865年(慶応元年)、イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の隠れキリシタンたちがフランス寺と呼ばれた同天主堂を訪れてプティジャンに信仰を告白し、隠れキリシタンたちの存在が明らかになった。このニュースは250年間の迫害を超えたキリシタン発見として世界に大きな驚きをもって伝えられた。翌年、プティジャンは再宣教後初の日本司教となった。 大浦天主堂は1933年(昭和8年)に旧国宝保存法による国宝に指定され、1953年(昭和28年)に日本最古の西洋建築として文化財保護法による国宝に指定された。 また、1873年(明治6年)9月に来日したジェルマン・レジェ・テストウィード神父は、巡回宣教旅行中に盲目の女性ハンセン病患者と出会ったことから療養所の設立を決意し、日本最初のハンセン病療養所である神山復生病院を設立した。現在も一般外来やホスピス病棟を備えた病院として稼働している。
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