新木ノ俣用水
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新木ノ俣用水は那須疏水の完成後、1893年(明治26年)に高林地区(当時の高林村)の灌漑用水として開削された用水路で、旧木ノ俣頭首工より上流部の、木の俣川の支流西俣沢川との合流地点近くにある新木ノ俣頭首工から取水する。集落へと流れ出た後は東西に分岐し、西側の流路は巻川用水や水無川である熊川と幾度か交差しつつ、旧木ノ俣用水よりも北西側の地域を流れる。この用水路はその後の1917年(大正6年)にも改修を受けており、後述の木ノ俣隧道はこの時期に掘られたものである。また、この用水路も旧木ノ俣用水と同様、1967年(昭和42年)から1994年(平成6年)の間に行われた国営那須野が原開拓建設事業において取水口や流路の改修を受け、那須野が原用水の一部として統合された。これにより、水路の一部は旧木ノ俣用水に合流し戸田調整池へと流れ込むようになっている。 この時期の新木ノ俣用水では木ノ俣隧道事故と呼ばれる、那須野が原の農業史上類を見ないとも形容されるような大事故が起こっている。事故の発端は国営那須野が原開拓建設事業が開始される直前の1966年(昭和41年)6月末に発生した、昭和41年台風第4号による増水で、このとき新木ノ俣用水の上流部で大正時代に掘られた水路トンネル(木ノ俣隧道)内の土砂が40mに渡って崩壊し、農業上重要な時期に水田への水の供給が行えなくなるという事態が発生した。このとき用水路の水を必要とする地元住人60人前後を動員し、トンネル内の土砂を取り除く復旧作業が行われたのだが、その作業中の7月8日午後、照明のために持ち込まれたガソリンエンジン発電機から発生した排気ガスを原因として、トンネル内で一酸化炭素中毒事故が発生。現場が山中であったことや、気象条件の悪さも重なって救援も難航し、女性6人を含む25人の死者と多くの要治療者を出す惨事を引き起こした。この事故は全国で報道され国会でも取り上げられたほか、多くの救援が寄せられるなど、結果的には水不足と戦う農民の苦境を全国に知らしめ、また地元の結束を強める結果に繋がったとも言われ、これをきっかけとして国営那須野が原開拓建設事業の着工は予定よりも早められることになった。 事故のあった水路トンネルは、元々改修が予定されていたものであり現在は使用されていないが、遺構付近には「木ノ俣隧道殉難者供養塔」と題した慰霊碑が立てられその後も慰霊碑の手入が続けられている。また、地区内から犠牲者を出した木綿畑本田地区では、豊作を祈願して江戸中期から続けられていた暴れ獅子舞の奉納を同年から後継者不足で廃止していたことが、事故との間に神秘的な関連性があったと信じられ、祭事は1970年(昭和45年)から再開された。この獅子舞の祭事は後の1973年(昭和48年)に「木綿畑本田の獅子舞」として市指定の無形民俗文化財として登録され、その後も地元の若者に継承されているという。
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