新木ノ俣用水とは? わかりやすく解説

新木ノ俣用水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 20:03 UTC 版)

木ノ俣用水」の記事における「新木ノ俣用水」の解説

新木ノ俣用水は那須疏水完成後、1893年明治26年)に高林地区当時高林村)の灌漑用水として開削された用水路で、旧木ノ俣頭首工より上流部の、木の俣川支流西俣沢川との合流地点近くにある新木ノ俣頭首工から取水する。集落へと流れ出た後は東西分岐し西側流路巻川用水水無川である熊川幾度か交差しつつ、旧木ノ俣用水よりも北西側地域流れる。この用水路その後1917年大正6年)にも改修受けており、後述の木ノ俣隧道はこの時期掘られたものであるまた、この用水路旧木ノ俣用水と同様、1967年昭和42年)から1994年平成6年)の間に行われた国営那須野が原開拓建設事業において取水口流路改修を受け、那須野が原用水一部として統合された。これにより、水路一部旧木ノ俣用水合流し戸田調整池へと流れ込むようになっている。 この時期の新木ノ俣用水では木ノ俣隧道事故呼ばれる那須野が原農業史類を見ないとも形容されるような大事故起こっている。事故発端国営那須野が原開拓建設事業開始される直前1966年昭和41年6月末に発生した昭和41年台風第4号による増水で、このとき新木ノ俣用水の上流部で大正時代掘られ水路トンネル(木ノ俣隧道内の土砂が40mに渡って崩壊し農業上重要な時期水田への水の供給が行えなくなるという事態が発生した。このとき用水路を必要とする地元住人60人前後を動員しトンネル内の土砂取り除く復旧作業が行われたのだが、その作業中の7月8日午後照明のために持ち込まれガソリンエンジン発電機から発生した排気ガス原因として、トンネル内で一酸化炭素中毒事故発生現場山中であったことや、気象条件悪さ重なって救援難航し女性6人を含む25人の死者多くの要治療者を出す惨事引き起こした。この事故全国報道され国会で取り上げられたほか、多く救援寄せられるなど、結果的に水不足と戦う農民苦境全国知らしめ、また地元結束強め結果繋がったとも言われ、これをきっかけとして国営那須野が原開拓建設事業着工予定よりも早められることになった事故のあった水路トンネルは、元々改修予定されいたものであり現在は使用されていないが、遺構付近には「木ノ俣隧道殉難供養塔」と題した慰霊碑立てられその後慰霊碑の手入が続けられている。また、地区内から犠牲者出した木綿畑本田地区では、豊作祈願して江戸中期から続けられていた暴れ獅子舞奉納同年から後継者不足で廃止していたことが、事故との間に神秘的な関連性があったと信じられ祭事1970年昭和45年)から再開された。この獅子舞祭事は後の1973年昭和48年)に「木綿畑本田獅子舞」として市指定無形民俗文化財として登録されその後地元若者継承されているという。

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