敗残兵として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 23:21 UTC 版)
11月24日にペリリュー守備隊長中川州男大佐が自決し、73日間の組織的戦闘が終結した。しかし土田たちはそのことを全く知らなかった。土田は敗残兵としてしばらく海軍洞窟に潜んでいたが、もっといい所はないかと思い、三原という兵長と共に探しに出て行った。直径20メートルほどのドーナツ状の窪地に降りて、斜面に横穴を見つけて潜んでいた。窪地の斜面は急なので米兵は降りて来ないと思っていた。ところが、あるとき米兵が降りてきた。急斜面なので何も持たずに素手で降りてきたようだった。土田たちも銃を持っていなかった。土田が穴から顔を出すと相手も穴をのぞき込んでいた。30センチメートルほどの距離で顔と顔とを突き合わせる格好になった。互いに何も言わずに後ずさりして逃げた。土田は三原兵長と共に逃げて大きな窪地を見つけて隠れた。米兵に見つかりそうになったがサイレンの音に救われた。サイレンは米兵にランチタイムを知らせるために毎日12時に鳴るものだった。米兵たちはランチを始め、土田たちはその隙に逃げ去った。 ある月の明るい夜、三原兵長と共に水を汲みに行って道へ出ると、突然クルマのライトに照らされた。辺り構わず身を投げ出して隠れたが、土田は米兵の直ぐ足元に身を伏せてしまった。米兵は足元の土田に気が付かずに、遠くばかりを見ていた。月夜の明るさとヘッドライトの眩しさが相まって、かえって近くが見えにくいようだった。銃声が聞こえ、その数秒後に「土田、水くれ…」という三原兵長の声が聞こえた。三原兵長はそう言ったきり、こと切れたようだった。米兵はもう一つの人影を探していたが、近くにいた土田に気付かないまま去って行った。 食糧は自己調達であるから部隊の間で争奪戦になった。土田とその仲間は海軍工作科壕に日本軍の缶詰が備蓄してあったのを取りに行っていたが、陸軍通信隊の連中もその缶詰の存在に気付いたようだったので、先回りして缶詰を独占しようとして備蓄場所に向かった。その場で彼らと鉢合わせになり、競い合うにように缶詰を確保した。彼らが引き上げたあと、仲間の千葉兵長の提案により、米軍の高射砲陣地に食糧を探しに行った。そこは米軍の缶詰の山だった。日本軍の缶詰を放り出して米軍の缶詰を1人5~6箱を担いで運んだ。持ち切れず、後で取りに来ようと途中で何箱か隠しておいた。それが米軍に見つかったのか、あるいは米軍の缶詰を食った残骸を放置していたのが見つかったのか、米軍に大規模な掃討戦をくらった。200人ぐらいの米兵が掃討にきて、4人の仲間が犠牲になった。
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