抗議の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:18 UTC 版)
「2013年タイ反政府デモ」の記事における「抗議の経緯」の解説
詳細は2013-14年タイ反政府デモのタイムライン (2013-2014 Thai political crisis#Timeline_of_the_events) を参照。 抗議行動の主な目的は、インラックの兄タクシン前首相がタイの政治に及ぼす影響を排除して、政治改革を監督するための選挙に拠らない「人民評議会」の設立にあった。抗議者たちはタクシンを汚職まみれでタイの民主主義に損害を与えている人物と見なしたが、彼はタイの広い地域(とりわけ貧しい北部と北東部)で自身の社会制度改革と経済指針改革による強力な支持基盤を獲得していた。2001年以降は、タクシンと連立を組む政党があらゆる選挙で過半数を獲得していた。王位継承、農村都市間または南北の格差、社会的不平等、過度に集中した官僚、政治における王室と軍部の影響、階級紛争といった諸問題がこの政情危機の背景要因として有識者達に示唆されている。 抗議行動の最初の引き金となったのが、タイ軍事クーデター (2006年)以降の政治家を様々な訴追から赦免することになる恩赦法案だった。 反政府抗議者たちはこの法案に異議を唱えるも、2007年タイ王国憲法の改正を目論む当時の政府はタクシンを支持して、汚職の有罪判決による自発的亡命から彼が帰国できる可能性があるようにした。なお、政府支持派の赤シャツ隊は、91人が殺害された暗黒の土曜日(タクシン支持派抗議に対する2010年の軍事弾圧)事件に関わる殺人容疑を含む内容だとして、この恩赦に反対した。政治的スペクトル全方向からの反対が、同法案を元老院 (タイ)にて全会一致で否決させることになった。それでも反政府抗議活動は続き、デモ参加者達は、官公庁の占拠、主要道路の交差点封鎖、バンコクでの大規模集会を開催して、インラックと彼女のタイ貢献党政権に退陣を求めた。2013年12月8日、野党民主党の国会議員153人が辞任するとインラックは人民代表院を解散させ、2月2日の総選挙を呼びかけた。PDRC抗議者達の投票所入口封鎖により、バンコクとタイ南部地域では投票が中断され、憲法裁判所によって開票結果が取り消されることになった。抗議者達への発砲、爆破未遂、手榴弾投擲などを含む散発的な暴力が、抗議活動の過程で死者28人および負傷者800人以上をもたらした。1月21日にインラック政権はバンコクとその周辺地域で非常事態を宣言したが、効果は殆ど無かった。 インラックと大臣9人は、2011年に論議を呼んだ国防幹部の異動が原因で、2014年5月7日に憲法裁判所によって失職となった。インラックの支持者と批評家は、この動議が政治的に動機づけられたもので司法権の乱用だと主張した。5月20日、タイ王国陸軍は国内全域での戒厳令を発令した。対立する陣営を集めた対話が軍主導で行われるも妥結に至らず、5月22日にクーデターによってインラック政権は解体された。同クーデターでは軍を中心とする「国家平和秩序維持評議会(NCPO)」が全統治権の掌握を宣言し、プラユット・チャンオチャ司令官を首相代行に任命した。
※この「抗議の経緯」の解説は、「2013年タイ反政府デモ」の解説の一部です。
「抗議の経緯」を含む「2013年タイ反政府デモ」の記事については、「2013年タイ反政府デモ」の概要を参照ください。
- 抗議の経緯のページへのリンク