戦争画制作への没頭
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藤田の他に戦争画の制作で評価が高かった画家に、小磯良平や宮本三郎らがいた。小磯や宮本らは戦場で撮影された報道写真をアレンジしたような作風であり、第二次世界大戦参戦後しばらくの間、日本軍の快進撃が続いている期間は優れた作品を制作していた。しかし1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、戦況は悪化し日本は守勢に立たされる。日本軍が快進撃を続けている間は報道写真が手に入りやすかったものが、守勢に立たされ敗退が続くようになると入手が難しくなっていく。その結果、小磯や宮本らの制作活動は精彩を欠くようになる。 ところが藤田は日本が敗退を続ける頃になって戦争画制作に没頭し、大胆な目を見張るような表現を取り入れた絵画を制作するようになる。藤田が戦争画制作に没頭するに至ったのは、他の多くの戦争画家が若手の画家であったのに対し、藤田は50代後半の戦争画家として最高齢に近かったことが理由の一つとして挙げられている。もはや若くない藤田としては、画家生活のある意味集大成として戦争画に全力投球せざるを得なかった。 1941年12月に日本が第二次世界大戦に参戦して約1年後くらいから、藤田は戦争画制作に極めて積極的な意見を表明するようになっていた。1943年2月、雑誌『改造』に「欧州画壇への袂別(べいべつ)」を発表し、画家として修業の場であり、活躍の場であったフランス画壇からの決別を宣言した上で、「大東亜の盟主日本国こそ大文化の中心となってすべて芸術中心地となることの疑いない」「画人間からも日本史上に傑出した巨匠を生んで、画壇の上で世界を征服しなければならぬ」との自説を唱えた上で、「私はあくまでもあるときは率先し、またある時は後押しとなってこの一大画業に邁進する覚悟」を訴えた また同じく1943年2月に『新美術』誌上で発表した「戦争画について」では、「私の四十余年の画の修行が、今年になって何のためにやってきたか明白に判ったような気がした……今日腕を奮って後世に残すべき記録画の御用をつとめ得ることの出来た光栄をつくづくと有り難く感ずる……絵画が直接にお国に役立つということは、なんという果報な事であろう」と書いた上で、「日本にドラクロア、ベラスケスのような戦争画の巨匠を生まねばならぬ」と主張した。ドラクロア、ベラスケスのような戦争画の巨匠を生まねばならぬとの藤田の言葉は、単に戦争を記録するのみならず、ドラクロア、ベラスケスに倣って、芸術性の高い戦争画を制作していこうとする藤田の意欲の表れであった。
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