復帰運動の再燃と多様化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 06:07 UTC 版)
「祖国復帰運動」の記事における「復帰運動の再燃と多様化」の解説
「島ぐるみ闘争」および「沖縄県祖国復帰協議会」も参照 一時は沈滞した復帰運動であったが、1950年代後半に軍用地問題に端を発した島ぐるみ闘争が起こると、運動は再燃した。1960年4月28日には、本土復帰の中心的団体として沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成された。その中心となったのは沖縄教職員会であり、沖縄自由民主党を除く各政党、労働組合、PTA、遺族連合会など多岐にわたる団体がこれに加わった。初代会長には教職員会出身の屋良朝苗が就任した。祖国復帰協議会は、以後、毎年4月28日にはデモ行進を行い、沖縄本島の辺戸岬沖では海上集会を開いた。この頃からは、賃金水準や税制、社会保障制度などにおいて、本土との格差是正という見地から復帰の利点を主張する傾向も強まった。一方、島ぐるみ闘争に現れた沖縄住民の不満の強さを知った米国民政府は従来の統治政策を転換し、軍用地料の一括支払いを取りやめたほか、外資導入促進のためのドル切り替え、西表島の日米共同開発、日本政府からの技術援助の導入など、本土との格差是正のための多面的な措置を講じた。 1962年3月19日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは 沖縄が日本国の一部であることを認め、日本の対沖縄援助について継続的に協議する「沖縄新政策」を発表した。しかし、米国の軍部首脳には、この協調路線によって日本政府の関与が強まり、沖縄における米軍の軍事的権利が侵害されることを懸念する向きもあった。1961年2月に琉球列島高等弁務官に就任したポール・W・キャラウェイ陸軍中将は自らの絶対的な権力を利用して、議会が採決した法案を次々と拒否し、沖縄経済界にまで介入して日本と沖縄の分離策を進めた。ケネディ大統領は日米協力関係に混乱をもたらすとしてキャラウェイを更迭した(キャラウェイ旋風)。 こうした流れのなか、政策の中心に対米協力を置き、琉球立法院にて長く与党の地位にあった沖縄自由民主党は、復帰を唱える前にさまざまな障害を取り除くことが先決だとして、「自治の拡大」「渡航制限の撤廃」「日本政府援助の拡大」などを一つ一つ実績を積み重ねながら段階的に「祖国との実質的な一体化」を達成する方針を打ち出した。一方、野党はこれを現状追認であるとして批判し、「日の丸掲揚」「渡航制限の撤廃」「主席公選の実現」「国政参加」を掲げて祖国復帰運動を推進した。
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