御影師範で柔道を始める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:34 UTC 版)
兵庫県但馬は朝来郡中川村(現・朝来市)の農村の家に4人兄弟の末っ子として生まれる。小学校時代は相撲が好きで、体は大きくはなかったものの20人以上の級友達を投げたり押し出したりして負かしていた。14歳で兵庫県御影師範学校に入学して初めて柔道衣を着用、この時に柔道の先生に褒められた一言が一生涯の柔道の縁となったという。竹内流の柔術家で大日本武徳会教士でもあった藤田軍蔵の薫陶を受けたこの頃の事を小谷は、「全国大会前の1日3回に亘る練習はとても辛かった」としつつ、「一学期の試験と重なり練習をサボると上級生にビンタを見舞われるが、幸い自分は柔道が好きで、辛かったがサボらなかった。勿論ビンタも来なかった」と述懐している。 また、当時は主に秋に近隣の各中等学校で柔道大会が開催されていて小谷達の所へも招待状が来ており、大会への出場申込をするとトーナメントの組み合わせが印字された簡単なプログラムが送られてきて、そこに自分の名前が印刷されてあるのが嬉しかったという。1921年11月付で講道館に入門、翌22年1月には初段を取得し黒帯を許された。後に寝て良し立って良しの“業師”と呼ばれる小谷の、柔道家としての第一歩であった。 1922年夏に大日本武徳会主催で開催された第3回全国中等学校大会の前には、学期末試験の勉強もそこそこに登校前・昼休み・放課後をひたすら柔道の稽古に打ち込み、正課で水泳をやっていた関係で背中の皮がむけ、更にそこに柔道衣がこすれて激痛を伴ったが、それをも堪えて飯よりも好きな柔道の稽古に励んた部員仲間の事を小谷は晩年に「最も懐かしい友人達」と回顧している。肝心の大会は中学校・商業学校・農学校・師範学校が一堂に会し、両校5名ずつの点取り方式のトーナメント戦を2日間で8回戦まで戦う大掛かりなもので、小谷らの兵庫御影師範学校が辛い練習の甲斐もあって優勝する事ができた。第1回大会の福岡県・福岡県立中学修猷館(現・県立修猷館高校)、第2大会の富山県・富山県中学校(現・県立富山高校)に次ぐ大会史上3番目の優勝校となり、真紅の大優勝旗を手にした時は感無量の思いであったとの事。同年秋にも近畿地区の大学や専門学校の主催で中等学校の柔道大会が多く開催され、沢山の優勝旗を学校の講堂に飾る事ができたという。
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