当主の御目見なしで養子が認められた例
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「末期養子」の記事における「当主の御目見なしで養子が認められた例」の解説
上山藩(藤井松平家)の例享保17年12月12日(1733年)、藩主松平長恒は生来病弱で藩政を執れなかったため、分家から松平信将を養子に迎え、家督を譲って隠居した。長恒は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族の合意で相続を願い出て、藤井松平家が徳川(松平)家の庶流一族であることから、特例としてそれが認められる形となった。 しかし異説として、長恒は享保13年(1728年)10月4日に13歳で病死しており、その後は家臣団によって長恒の影武者に家臣の子が立てられ、末期養子出願の基準となる17歳までしのいだ後に松平家の正当な血を引く縁者への家督相続が進められた、ともされる。 宮津藩(本庄松平家)の例宝暦11年(1761年)4月25日、藩主松平資昌は病弱のため将軍に奉公が出来ないとして、領地の返上、または養子を貰い受け隠居することを願い出た。5月3日に幕府から養子相続と隠居の許可が下り、資昌は11月27日に家督を養子の資尹に譲って隠居し、翌宝暦12年(1762年)1月18日に19歳で死去した。資昌は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族合意の願い出を受け、本庄松平家の桂昌院との縁から特例として家の存続が認められた。 秋月藩(黒田家)の例天明4年(1784年)2月10日、藩主黒田長堅は15歳で死去した。初御目見前であり、実子も養嗣子もなく、宗家の福岡藩黒田家と相談して、初め人吉藩の例と同様に姻戚の公家(ただしこちらは血縁関係があった)唐橋在家の子を替え玉にすることが計画されたが、これは断念された。結局、長堅の存命を装った上で隠居願いを出し、高鍋藩秋月家から黒田家の血を引き長堅より年長の黒田長舒を迎え、家督を継がせることになった。本来は末期養子が可能な年齢でさえなかったが、当時は宗家の黒田斉隆(一橋家からの養子)も幼少で、長崎警備の任に堪えうる者を選んで黒田家を継がせたいと願い出て、それが認められる形となった。表向きは、長堅は天明5年(1785年)に隠居して同年に16歳で死去したとされた。 仙台藩(伊達家)の例文化6年(1809年)、藩主伊達周宗は14歳で疱瘡にかかった。回復の兆しがないため、文化9年(1812年)に弟の斉宗を末期養子に定めて隠居し、間もなく同年に17歳で死去した。初御目見前であったが、周宗は11代将軍徳川家斉の娘と婚約していたため、特例として認められた。 しかし、実際には周宗は発病後間もなく死亡しており、以後は存命を装っていたとも伝えられている。
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