引退について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:09 UTC 版)
引退の理由として、監督に就任した星野仙一(1986年オフ当時)の「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」という発言が決めの一手となったと引退記者会見で述べている(記者会見の様子はNHK特集「監督 星野仙一」にて放送された)。引退直後のテレビ出演時には、星野との話し合いの中で、「あと3年現役を続けられるのなら必要な戦力だが、1年しかできないなら要らない」と言われて引退を決意したとも語っている。しかし2010年出版した著書「野球のソムリエ」の中ではこのような発言や星野との確執を否定するような記述も見られ [要ページ番号]、記者会見での発言の意図や真意は定かではない。1989年に早稲田大学大隈講堂で習志野高の後輩である掛布雅之(元・阪神)と講演会を行った際には、引退が早すぎたかとの質問に答えて「自分でも後一年くらいはやれたと思うが監督の意向が入っており仕方がなかった」と語っている(口調は穏やかで今更拘泥するつもりは無いという風情の発言であった)。後に語ったところでは、1986年10月に球団事務所に呼ばれ、フロントから『次の監督は星野さんで、谷沢くんは構想に入ってない』『年俸がこれだけでいいなら残っていいよ』と言われたことから「来季構想には入ってないけど、年俸次第で残っていいなんて意味がわからない。こんなあやふやに考えているんだと思って引退を決意した」との事情を明らかにしている。 1年先輩の星野とは、世間では現役時代から大の不仲といわれ、マスコミ相手でのふたりだけの2ショットシーンは入団初期に行われた「週刊ベースボール」の対談企画によるたった一度だけだった。ただし、星野が2018年に逝去した際には評論家を務めていた中日スポーツに高木守道・木俣達彦・大島康徳とともに生前を偲ぶコメントを寄せていた。また、自身のYoutubeチャンネルでは2020年11月5日に「【中日ドラゴンズ】星野仙一さんとの思い出・秘話」を投稿し、決して世間で語られるほどの不仲ではなかったことを示唆している。実態としては、星野が谷沢の行動の一部を嫌っていたというのが真相らしく、谷沢によれば「星野さんとの確執がどうのこうのって言われるけど、僕からするとまったくない。ただ、シーズンが始まる前、僕が自宅に選手を集めて決起集会をやっていたんだけど、そういうのを星野さんは嫌がっていたみたいよ(笑)」とのことで、田尾安志も「谷沢さんは派閥をつくるとかそんなことどうでもよく、本当に穏やかで誰とでも飲みに行ける人。むしろそういうところが星野さんとしては気に食わなかったのかも」と証言している。
※この「引退について」の解説は、「谷沢健一」の解説の一部です。
「引退について」を含む「谷沢健一」の記事については、「谷沢健一」の概要を参照ください。
引退について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:53 UTC 版)
2015年に2回目の賞金王を獲ったところで「選手としてやり切った」意識が生まれ、翌2016年のグラチャン優勝の直後に「優勝したのに、レースがつまらない」と思い、以後選手としてのモチベーションが失われていたという。しかし、以前より周囲からは「とにかく30年は(選手を)続けろ」と言われていたことから、デビューから30年経った2022年までは現役を続けるつもりで活動していた。師匠の廣町恵三、同期の川北浩貴らには2022年の正月の時点で引退の意向を伝えており、当然ながら慰留を受けたものの、本人の決意は固く慰留を断念した。
※この「引退について」の解説は、「山崎智也」の解説の一部です。
「引退について」を含む「山崎智也」の記事については、「山崎智也」の概要を参照ください。
- 引退についてのページへのリンク