弁護側尋問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)
「アルベルト・シュペーア」の記事における「弁護側尋問」の解説
1946年6月19日からシュペーアの弁護側尋問が始まり、シュペーアが証言台に立つことになった。 シュペーアはフレックスナー弁護士との事前の打ち合わせで労働力配置総監ザウケルに罪を着せようとしているという印象を判事団に持たれないようにしようと決めていたため、フレックスナーの「ザウケルによる労働力徴収に異議を唱えたか」という質問に対して「異を唱えるどころか、私はザウケルが提供してくれた労働者に関しては、常に彼に感謝していました。人手不足のために軍需生産の目的が達成できないことがしばしばあったので、そんな時には彼に苦情を言いました」と証言した。他方「ザウケルは自分はシュペーアのために活動したと証言しているが、それについて何か言いたいことは?」という質問に対しては「もちろん私は、なによりも軍需生産のための労働力需要をザウケルが満たしてくれることを期待していました。しかし私の望んだ労働力を彼が完全にそろえてくれなかったことから分かる通り、私が彼を支配ないし管理していたわけではありません」と証言した。この証言を聞いたザウケルは飛び跳ねるように反応して自分の弁護士を呼び、異議を唱えようとしたが、弁護士に今は発言できないので堪えるよう説得された。 「侵略戦争の計画・準備に関わったか?」という質問に対しては「自分は1942年まで建築家として働いていたし、それまで自分が建設した物はすべて代表的な平和的建築物でした。これらの仕事は、多くの兵隊を前線勤務から遠ざけることになっただけでなく、膨大な費用と資材を要したので自分の活動によって結局は軍需工場や戦時経済の活動を弱めることになったでしょう」と証言した。 「あなたは『工業技術関係の省』を指揮していたが、自分の責任をその範囲内に収めたいと考えるか?」という質問に対しては「いいえ。今回の戦争は考えられないほど壊滅的な被害をもたらしました。ドイツ国民の被った災厄に関して責任の一端を担うのが、私の義務であることは疑いありません。私はドイツ指導部の重要な一員として全体の責任の一部を引き受けます」と証言した。この発言は判事団に好感をもたれたようだった。 また、自らがヒトラーの焦土作戦指令に反対してドイツ国民再建の基盤を残そうと尽力したことを証言し、さらに1945年2月に戦争を終わらせるためヒトラー暗殺計画を企てたことを証言した。そして、「1945年1月以降に両陣営が払った犠牲は無益なものでした。この間に亡くなった人々は戦闘を継続した責任を負う男を糾弾すべきです」と述べてこの日の証言を終えた。
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