平安時代から戦国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:49 UTC 版)
「赤城神社 (前橋市富士見町赤城山)」の記事における「平安時代から戦国時代」の解説
六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。論社には赤城山頂に鎮座する当社のほか、山腹の三夜沢赤城神社、山麓の二宮赤城神社があり、確定していない。 当社は赤城神社の山宮と推定されている。山宮は神仏習合期に修験者が各地の霊山に登り修行の場とし、彼らの信仰の中心地となったことで展開していった。また武家政権の出現は朝廷、国司の権力の低下を意味し、里宮の経済力を衰退させた。この結果、延喜式内社として信仰の中心だった里宮が衰え、山宮と参詣路の中心・中社の勢いが強くなっていく。戦国時代、1576年(天正4年)里宮と推定される二宮赤城神社は、南方氏(北条一門)によって滅亡させられた。ただし当社が唯一の山宮とされるわけではなく、三夜沢赤城神社も二宮に対する山宮とされることもあり、赤城神社の山宮・里宮ははっきりしていない。 南北朝時代の『神道集』には「赤城大明神」に関する説話3話が載せられており、大沼・小沼に祠を祀る記述がある(「赤城神社#神道集」参照)。これが赤城神社の所在地を特定する最古の史料になる。この記述から、同書が書かれた時は沼が祭祀の中心であったとも解される。
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