帝国内戦
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383年、西方正帝の一人グラティアヌスがブリタンニア軍司令官マクシムスによる反乱で殺され、マクシムスがブリタンニアのローマ軍団によって皇帝に推戴された。マクシムスは翌384年には東方正帝テオドシウスからも共同皇帝として承認され、もう一人の西方正帝ウァレンティニアヌス2世が統治していたイタリア半島を除いた西方の支配者となった。しかしまもなくマクシムスとウァレンティニアヌス2世は対立し、387年にマクシムスはイタリアに軍を進め、ウァレンティニアヌス2世はテッサロニキへ逃亡した。テオドシウス1世はウァレンティニアヌス2世を支持してマクシムスを攻撃し(サヴァ川の戦い(英語版))、翌388年8月28日にマクシムスとその子で共同皇帝でもあったウィクトル(英語版)を処刑して、ウァレンティニアヌス2世を西方の首都メディオラーヌムの宮廷に復帰させた。テオドシウス1世はウァレンティニアヌス2世の後見人としてメディオラーヌムに留まり、西方の主要な行政官をテオドシウス1世の息のかかった人物へと次々に入れ替えていった。テオドシウス1世はメディオラーヌムの宮廷が自らの支持者で満たされたのを確認した後、391年にコンスタンティノポリスの宮廷へと帰還した。 392年のウァレンティニアヌス2世の死後、フランク族出身の軍司令官アルボガストによって元老院議員のエウゲニウスが西方皇帝に推戴された。エウゲニウスはテオドシウス1世によって弾圧されつつあった古代ローマの伝統宗教を擁護する政策を採り、オリエント化が進む東方を嫌悪していたローマ人から支持を集めた。エウゲニウスが西方で支持を集めるにつれ、テオドシウス1世の西方に対する影響力は弱まっていった。これに対してテオドシウス1世は次男のホノリウスに西方皇帝を名乗らせると394年にイタリアに軍を進め、フリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破ってメディオラーヌムを占領し、ホノリウスをメディオラーヌムの宮廷へ住まわせた。まだローマでは元老院が抵抗を続けていたが、テオドシウス1世は没するまでの4ヶ月間を西帝ホノリウスの後見人としてメディオラーヌムに滞在して元老院に圧力を加え、ローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。 395年1月、冬営中のメディオラーヌムにおいて48歳で死去した。死に際してテオドシウス1世は、自らの下で既に正帝を名乗らせていた2人の息子に、それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東方とメディオラーヌムを首都とする西方とを分担統治させた。テオドシウス1世の死後、アンブロジウスは弔辞で賛辞を述べた。 アラン・キャメロン(英語版)は、エウゲニウスらテオドシウス1世の敵対者が着せられた罪状はテオドシウス1世を正当化するために作られたものであったとしている。ユニバーシティ・カレッジ・コークのデイビッド・ウッズは、テオドシウス1世が自身の野心と利益のために引き起こした不要な内戦が帝国の防御能力を著しく弱めたと指摘している。特にフリギドゥスの戦いは西方軍団を崩壊させ、軍団は短期間での大規模な再編成による質の低下を余儀なくされた。次第に西方の人々は、東方世界から来てメディオラーヌムの宮廷に住み着いた西方皇帝よりも、共に西方のために戦うフォエデラティに依存するようになっていき、最終的には西方の地に皇帝は不要であるとの判断を下した。
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