帝国内戦とは? わかりやすく解説

帝国内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:55 UTC 版)

テオドシウス1世」の記事における「帝国内戦」の解説

383年西方正帝一人グラティアヌスブリタンニア軍司令官マクシムスによる反乱殺されマクシムスブリタンニアローマ軍団によって皇帝に推戴された。マクシムスは翌384年には東方正帝テオドシウスからも共同皇帝として承認されもう一人西方正帝ウァレンティニアヌス2世統治していたイタリア半島除いた西方支配者となった。しかしまもなくマクシムスウァレンティニアヌス2世対立し387年マクシムスイタリアに軍を進めウァレンティニアヌス2世テッサロニキ逃亡したテオドシウス1世ウァレンティニアヌス2世支持してマクシムス攻撃しサヴァ川戦い英語版))、翌388年8月28日マクシムスその子共同皇帝でもあったウィクトル英語版)を処刑して、ウァレンティニアヌス2世西方首都メディオラーヌムの宮廷復帰させた。テオドシウス1世ウァレンティニアヌス2世後見人としてメディオラーヌムに留まり西方主要な行政官テオドシウス1世の息のかかった人物へと次々入れ替えていった。テオドシウス1世はメディオラーヌムの宮廷が自らの支持者満たされたのを確認した後、391年コンスタンティノポリス宮廷へ帰還した392年ウァレンティニアヌス2世死後フランク族出身軍司令官アルボガストによって元老院議員エウゲニウス西方皇帝に推戴された。エウゲニウステオドシウス1世によって弾圧されつつあった古代ローマ伝統宗教擁護する政策を採り、オリエント化が進む東方嫌悪していたローマ人から支持集めたエウゲニウス西方支持集めるにつれ、テオドシウス1世西方対す影響力弱まっていった。これに対してテオドシウス1世次男ホノリウス西方皇帝名乗らせる394年イタリアに軍を進めフリギドゥスの戦いエウゲニウスらを破ってメディオラーヌムを占領しホノリウスをメディオラーヌムの宮廷へ住まわせた。まだローマで元老院抵抗続けていたが、テオドシウス1世没するまでの4ヶ月間を西帝ホノリウス後見人としてメディオラーヌムに滞在して元老院圧力加えローマ帝国東西実質的に単独支配した395年1月冬営中のメディオラーヌムにおいて48歳死去した死に際してテオドシウス1世は、自らの下で既に正帝を名乗らせていた2人の息子に、それぞれコンスタンティノポリス首都とする東方とメディオラーヌムを首都とする西方とを分担統治させた。テオドシウス1世死後アンブロジウス弔辞賛辞述べた。 アラン・キャメロン(英語版)は、エウゲニウステオドシウス1世敵対者着せられ罪状テオドシウス1世正当化するために作られたものであったとしている。ユニバーシティ・カレッジ・コークのデイビッド・ウッズは、テオドシウス1世自身野心利益のために引き起こした不要な内戦帝国防御能力著しく弱めた指摘している。特にフリギドゥスの戦い西方軍団崩壊させ、軍団短期間での大規模な再編成による質の低下余儀なくされた。次第西方の人々は、東方世界から来てメディオラーヌムの宮廷住み着いた西方皇帝よりも、共に西方のために戦うフォエデラティ依存するようになっていき、最終的に西方の地に皇帝不要であるとの判断下した

※この「帝国内戦」の解説は、「テオドシウス1世」の解説の一部です。
「帝国内戦」を含む「テオドシウス1世」の記事については、「テオドシウス1世」の概要を参照ください。

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