崇仏論争に対する新説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 03:27 UTC 版)
有働智奘は、「崇仏論争」という概念自体が明治期以降に誕生したとする説を提唱した。その根拠は以下の通りである。 物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され(ただし、渋川廃寺は推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺には、その近隣の真福寺に守屋の息子の真福が創建したという伝承があり、さらに、物部氏の影響が強かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたと考えられると複数人の研究者が指摘している。 物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低く、また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えず、その上、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていた。 中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない。 祭祀を担当していた物部氏、中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであり、蘇我氏が仏教を推進したのは、朝廷が氏族に「依託祭祀」させたもので、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものであった。 ただし、後に有働智奘は、「崇仏・廃仏」という用語の初見は、江戸時代の国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であったと訂正した。
※この「崇仏論争に対する新説」の解説は、「仏教公伝」の解説の一部です。
「崇仏論争に対する新説」を含む「仏教公伝」の記事については、「仏教公伝」の概要を参照ください。
- 崇仏論争に対する新説のページへのリンク