岡藩主中川家墓所とは? わかりやすく解説

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岡藩主中川家墓所

名称: 岡藩主中川家墓所
ふりがな おかはんしゅなかがわけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 大分県
市区町村 竹田市大字会々大字入田久住町豊後大野市寺原
管理団体
指定年月日 1997.09.02(平成9.09.02)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 文禄3年(1594)、中川秀成66000石で岡城入城し以後明治維新にいたるまで、竹田中川氏城下町であった。この岡藩中川氏旧藩領内での墓所城下[[碧雲]へきうん]寺および城下北方大船山中、そして城下東方小富士山の3か所に営まれている。
 碧雲寺慶長17年(1612)春、初代藩主中川秀成建設着手したのである。その年の夏、完成前に秀成は死去したが、葬儀はこの寺で行われた寺号は、秀成が朝鮮より持ち帰った寺額の号によるという。この寺には初代秀成、2代久盛、4代久恒5代久通6代久忠、9代久持、11代久教の墓が営まれている。御成門につづく土塀囲まれたなかに[[竜吟池]りゅうぎんち[[五]いけ]]を配し、その北側山麓宝塔変形)、輪塔等による墓塔配したのである墓塔かつては霊廟建物霊屋)のなかに置かれたものであり、2代久盛の霊屋隣接する高流寺移築され現存する碧雲寺所蔵万延元年1860絵図墓域画かれているが、平成4年度にこの絵図基づいて竹田市教育委員会史跡整備行った
 3代久清の墓は城下離れた大船山山中にある。久清は人馬鞍に乗って大船山登山し、また剃髪後、「入山」を称したように大船山好んでおり、寿墓の地を大船山中の鳥井窪に選定していた。死後遺言により墓は儒葬でその地に営まれた。8代久貞の場合遺言により、儒葬によって岡城の南、小富士山営まれた。岡城眺望し得る風景絶佳の地である。なお他の藩主墓地東京江戸青松寺、同青山共葬墓地営まれている。
 今回指定対象とするのは旧岡藩領内にある3か所であるが、これらは、碧雲寺墓所のような庭園をともなう仏式の墓という特色ある様式をもつものがある一方大船山小富士山のような自然のなかの儒式の墓もあり、大名墓所対す思想をよく示している。よって史跡指定しその保存を図るものである
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史跡:  岡山藩主池田家墓所  岡津製塩遺跡  岡田山古墳  岡藩主中川家墓所  岡豊城跡  岩井堂洞窟  岩井廃寺塔跡

岡藩主中川家墓所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 01:45 UTC 版)

座標: 北緯32度58分21秒 東経131度24分08秒 / 北緯32.97250度 東経131.40222度 / 32.97250; 131.40222




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