小笠原氏時代とは? わかりやすく解説

小笠原氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 02:36 UTC 版)

小倉藩」の記事における「小笠原氏時代」の解説

同年播磨国明石藩より、忠利の義兄弟である小笠原忠真入部し小倉城主として豊前北部15万石領した。なおその際支城豊前中津城には忠真の甥長次が8万石入部し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石入部し杵築藩成立した。 忠真の母は松平信康の娘で徳川家康の外曾孫にあたることから、以後小倉小笠原氏西国譜代大名筆頭として九州玄関口抑える、いわば「九州探題」の役割果たし外様大名監視あたったが、これが幕末における小倉城落城遠因ともなった宮本武蔵嗣子宮本伊織は、父ともに出陣した島原の乱軍功などにより知行4000石の小倉藩筆頭家老となり忠真を支え以後宮本家代々その地位世襲した。2代忠雄寛文7年1667年藩主相続の際、弟の真方小倉新田藩千束藩1万石を内分分知した。 享保15年1730年)には、3代忠基の次男長逵が、継嗣のいなかった播州安志藩初代藩主小笠原長興養子となってこれを相続以後小倉藩小倉新田藩安志藩小笠原三家継嗣養子縁組などにより姻戚関係深め小倉新田藩のみならず本来小笠原氏嫡流だった安志藩までもが小倉藩分家筋のように位置付けられていくこととなった4代忠総は、宝暦8年1758年)に小倉城内に藩士文武教練場「思永斎」を設けた。これが後の藩校「思永館」となった安永6年1777年甘知寛(いぬかい ともひろ)が家老就任し藩財政改革行った甘の努力により寛政10年1798年)頃には財政好転し銀8千貫貯蓄ができるまでになったが、反対派陰謀により享和3年1803年)に失脚無実の罪により入牢しそこで非業の死遂げたその後藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなった文化8年1811年)第6代藩主小笠原忠固時代文化の変とも白黒騒動とも呼ばれる御家騒動勃発 文政3年1820年)には郡代杉生貞則による産業振興策が始まり今川河川改修各地道路整備宇島築港などが行われた。 文政年間には村方騒動起こった

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