対ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 15:42 UTC 版)
東方情勢の安定化と内乱の沈静化によって、シャープールは40年にわたる和平を破り、対ローマ戦争に踏み切った。337年にコンスタンティヌス1世の死を挟んだこともあって、2度の戦役に分けられる26年に及ぶ長い戦いが始まる。コンスタンティウス2世の時代、344年のシンガラの包囲戦(en:Siege of Singara)でも芳しい成果を上げられなかった。シャープールはニシビス(en:Nisibis)を3度にわたって攻囲したが落とせず、アナトリア半島南東部の城塞都市アミダ(en:Amida (Mesopotamia))も抜くことは出来なかった。 シャープール2世の時代に、歴史的な大事件であるフン族の移動が始まった。サーサーン朝の領内にもフン族、及び押し出された諸民族が流れ込んできた。彼らはキダーラ(en:Kidarites)、キオニテ、エフタルなどと呼ばれた。シャープール2世は353年から358年にかけて東方で彼らと戦い、その後に和を結んで東方に住まわせ、ローマ帝国と戦う同盟者とした。 サーサーン朝軍はシンガラ(en:Singara)においてローマ軍に敗れ、王子ナルセが戦死する被害を受けた。しかし359年、遊牧民の援軍を得たシャープール2世は73日間に及ぶ包囲の後、アミダを陥落させた。このアミダの攻略により、サーサーン朝の優勢は決定的なものとなる。この戦いはローマの史家アミアヌス・マルケリヌスによって記され、シャープール2世は自ら陣頭に立って遠征軍を指揮し、黄金の牡羊の頭部を模した王冠を被っていたと記されている。360年にはシンガラといくつかの要塞都市を陥落させた。 アミダ陥落に衝撃を受けたユリアヌス帝は自ら出陣する。363年のクテシフォンの戦い(en:Battle of Ctesiphon (363))では優勢に立つも、ユリアヌスは戦死した。後継者ヨウィアヌスは軍を安全に退却させるため、ティグリス川左岸のローマ要塞ニシビス、シンガラなど計5つの属州をシャープールへ割譲、アルメニアから手を引くという大幅な譲歩をする。これによりシャープールはアルメニアへ侵攻した。その後シャープールはウァレンスとの交渉のためアルメニアへ赴こうとしたが、ウァレンスがゴート戦で戦死したため実現しなかった。シャープールはアルメニアの親ローマ派である王アルサケス2世(en:Arshak II)を幽閉後自殺に追い込み、アルメニアをキリスト教国からゾロアスター教国へ変えようとした。 ニーシャープールにある石碑には、おそらくヨヴィアヌスと思われる人物がシャープール2世に対してひざまずいて和を乞う姿が描かれている。 サーサーン朝の国是である、アケメネス朝の再興に向けての領土拡張という点では偉大な成果を挙げはしたが、当時としては異例の長期間、半世紀を越す在位は貴族たちの権勢を弱め、またローマとの戦いで受けた被害も大きかった。その後、貴族たちの王家に対する干渉が強くなっていった。
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