室町期の公卿の屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
室町時代の寝殿造は将軍邸以外には見るべきものがない。これまでに見てきた室町時代の寝殿は内裏とか室町将軍など当時の最上級であって、本来上級寝殿造の担い手であったはずの摂関家などの上級貴族の屋敷は応仁の乱を待つまでもなく、以下のような状態であった。 貞和4年(1348)中納言甘露寺藤長の邸は「中門も公卿座も不候」と言われる。 応安元年(1368)新中納言実綱の邸には中門を欠き、甚だ不具と言われる。 永享7年(1435)関白二条持基の二条殿には寝殿が無くて将軍御所の小御所をもらいうけて寝殿に改作。 嘉吉3年(1443)裏辻邸も寝殿が無くて、ただ廊だけ、つまり梁間一間か二間、大きくても三間の建物だけだったという。 同じ嘉吉3年(1443)に、三条実量邸の寝殿は「本式に非ず」と言われ、番衆所・車宿・中門廊を具えていたが、寝殿には高欄が無かった。高欄が無い寝殿は平安時代にも沢山あったはずだが、三条実量の父は右大臣。本人も後には左大臣である。大臣家で寝殿に高欄が無いのは平安時代感覚ではあり得ない。更に殿上・公卿座を欠いていた。つまり二棟廊や侍廊まで無かったと。
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