室町時代前期・中期とは? わかりやすく解説

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室町時代前期・中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:45 UTC 版)

島津氏」の記事における「室町時代前期・中期」の解説

南北朝の内乱分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失うと、互い脅威とみなし対立深めた。やがて7代島津伊久総州家)とその嫡子島津守久不和となり、総州家内部内紛勃発すると、7代島津元久奥州家)がこれを調停し恩義感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代家宝譲られ表面上は両島津氏再統一された。後に室町幕府にも相続安堵された。しかし、総州家滅亡したわけではなく両家対立残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所鹿児島清水城移り本格的に鹿児島の街が開府した。 守護職奥州家元に統合され島津氏だったが、元久嗣子無く没すると、島津一族筆頭であった伊集院頼久自身の子息を本家当主据えよう画策する。これを察知した元久弟・島津久豊は元久位牌奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立深まり、また伊集院氏総州家助勢したため、またも領国内に内紛伊集院頼久の乱)が起こったが、最終的に久豊は伊集院氏降し、また総州家を滅ぼすことに成功島津氏守護領国制完成させた。 9代・島津忠国の代になると、島津氏守護大名として確立し比較安寧時期続いたが、大小内紛散発していた。特に忠国の弟である島津用久(好久・薩摩守)が声望増したため、兄弟間の対立起こった(なお、内紛鎮圧失敗した忠国が家督を一旦用久に譲ったものの、その後忠国が当主への復帰図ったとする説もある)。この争い中央6代将軍足利義教との権力闘争敗れた大覚寺義昭討った忠国に幕府味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利終わったこの際に忠国は好久に薩州家立てさせ、ある程度譲歩をしている。忠国と好久の対立解決されたものの、家中掌握には失敗して家臣反抗招き事実上の引退追い込まれた。 10代島津立久時代には応仁の乱勃発し島津氏東軍属した(但し派兵せず)。11代の島津忠昌桂庵玄樹招聘して薩南学派起こすなど学問好んだが、領国内の一族国人立て続け挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害し果てたその後12代・島津忠治13代・島津忠隆継承したが、いずれも早世したため国内島津氏一族国人大隅肝付氏日向の伊東氏押さえることは叶わず、守護家の島津氏は全く弱体化してしまっていた。

※この「室町時代前期・中期」の解説は、「島津氏」の解説の一部です。
「室町時代前期・中期」を含む「島津氏」の記事については、「島津氏」の概要を参照ください。

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