学制改革以降
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「大阪市立中大江小学校」の記事における「学制改革以降」の解説
1947年の学制改革により、大阪市立中大江小学校となった。 また高等科単独の国民学校となった北大江国民学校は学制改革により廃止され、跡地を転用して新制大阪市立東第一中学校(1949年大阪市立東中学校)が発足した。東中学校は1988年、大阪市立船場中学校と合併して新たな大阪市立東中学校となり、大手前に移転した。北大江小学校・(旧)東中学校跡地は大阪府立中央高等学校となっている。 旧中大江東国民学校跡地は、相愛学園の仮校舎として使用されたのち、1950年に大阪市立船場中学校が設置された。船場中学校は(旧)東中学校と合併し現在の大阪市立東中学校となり、跡地は駐車場や高層マンションとなっている。 戦災の影響で休園していた大阪市立中大江幼稚園は1948年、大阪市立銅座幼稚園中大江分園として小学校内で再開した。翌1949年には大阪市立中大江幼稚園として復興している。1956年には独立園舎へと移った。 1959年には学童奨励服(標準服)が制定されている。
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学制改革以降
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1947年の学制改革により、大阪市立栄小学校となった。1975年には木津川2丁目に移転している。 木津川2丁目にあった当時の校地は約4万6700平方メートル、建物延べ面積は3万1200平方メートルと、平均的な大阪市立小学校4校強に相当する広さを持つ。廊下の幅は7メートル、劇場のような講堂、広大な体育館、1000人収容の食堂、運動場には200メートルトラックを完備し、日本一の小学校といわれた。 一方で栄小学校は児童数の減少傾向が続き、2000代後半時点では1学年1学級の単学級校となり、児童数も百数十人となった。 学校規模と比較して校地が広すぎるため空き教室が30教室以上になっていることや、学校の施設管理・児童の安全管理の面でも支障が指摘されるなどした。そのため学校規模に見合った敷地で効率的な教育活動をおこなうことなどを目的に、栄小学校を2013年度にもと浪速青少年会館敷地(浪速東1丁目)に縮小移転させる計画が、2010年8月に大阪市教育委員会から発表された。現栄小学校跡地は改修・整備の上で2014年度より、入学者の増加による学校過密化が問題化している大阪市立難波特別支援学校を移転させる予定となっていた。 もと浪速青少年会館は一部を栄小学校敷地予定地にして残りを売却することにしたが、売却予定地での土壌汚染が見つかり、汚染状況の調査のために移転時期が1年遅れ、2014年度よりの移転へと変更された。これに伴い難波特別支援学校の移転も2015年度に変更された。
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