太田家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:09 UTC 版)
15世紀頃の越生は扇谷上杉家の所領の境界付近に位置し、合戦の最前線でもあった。そのため、扇谷上杉家の家宰(重臣)であった太田家が駐留し、太田道真は砦を龍穏寺の境内に築いていた(山枝庵砦)。 当時は仏教と民衆が密接に関係しあっていたため、太田家(もしくは主君・扇谷上杉家)は曹洞宗を布教し、統治の助けにしたものと思われ、龍穏寺は布教の中心として機能していたと思われる。その傍証として、龍穏寺の末寺の多くは、扇谷上杉家の勢力範囲と重なる地域に点在しており、その多くは15世紀中頃から16世紀初頭に開山されている。この時期は太田家・扇谷上杉家が勢力を延ばしていた時期と重なる。 『新編武蔵風土記稿』、埼玉県教育委員会などによれば龍穏寺の開山は1430年だが、実質的には1472年の太田道灌・太田道真の手によるものと推定される。道灌・道真の帰依していた泰叟妙康(第3世住職)が実質的な開山住職であり、直系の師である無極慧徹・月江正文の名をそれぞれ第一世・第二世に据えたものとされる(ただし、これは当時の寺院としてはごく一般的なことである)。 道真は越生町で死去し、その墓所は龍穏寺境内にある。また分骨された道灌の墓所も同所にあり、太田家との関係性が伺える。 その後、太田家は後北条家に仕え、後北条家が滅びると江戸に入った徳川家康に取り立てられる。太田家は関東で名の知れた名門であり、在来の武将を取り立てたのは関東に基盤を持たない家康の統治政策の一旦であった。また、江戸城を築城したのが太田道灌であったことも理由の一つであると考えられる。やがて太田家からは 英勝院 - 太田道灌4代の子孫。徳川家康の側室。家康の寵愛を受け、幕府内に重きを成した。 太田資宗 - 太田道灌5代の子孫。徳川家光の側近『六人衆』の一人であり、後の若年寄の元となる。 などが出て、遠江国浜松藩3万5000石まで登りつめる。子孫は幕府の要職を歴任し、老中(資愛、資始)も出し、明治維新後には子爵となった。この系統の血縁関係は諸説あるが(詳細は各項を参照)、いずれにせよ『資』の通字を使う太田家が幕府の要職に就いていたのは間違いがなく、その高名な祖先、太田資長(道灌)・太田資清(道真)と縁の深い龍穏寺が、関三刹に推挙された遠因となっている。
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