太守位の継承と内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 15:14 UTC 版)
「シラージュ・ウッダウラ」の記事における「太守位の継承と内紛」の解説
1756年4月、アリーヴァルディー・ハーンが死亡したことにより、孫のシラージュ・ウッダウラが太守位を継承した。だが、その継承をめぐり、彼には3人の敵対者がいた。 1人目は、アリーヴァルディー・ハーンの長女で、シラージュ・ウッダウラの伯母ガシーティー・ベーグムであり、そのベンガル太守の後継を不適任だとした。彼女はシラージュ・ウッダウラの敵対者になりそうな者に金をばら撒いていたため、ダッカの彼女の邸宅はその陰謀の中心となっていた。 2人目は、同じくアリーヴァルディー・ハーンの孫で、シラージュ・ウッダウラの従兄弟にあたるシャウカト・ジャングである。彼はシラージュ・ウッダウラがアリーヴァルディー・ハーンの三女の子であるのに対し、次女の子である自分のほうがベンガル太守の継承権があると主張した。 3人目は、ベンガル軍の総司令官ミール・ジャアファルである。彼はシラージュ・ウッダウラに一応味方していたが、アリーヴァルディー・ハーンの異母妹を妻にしていたことから、内心は自分がベンガル太守になろうと画策していた。。 即位後、シラージュ・ウッダウラは、ガシーティー・ベーグムに味方したダッカ市長フサイン・クリー・ハーンを殺害した。これに対抗する形で、ガシーティー・ベーグムは後任の市長にラージャ・ラージ・バラブを任命していた。そのため、シラージュ・ウッダウラはラージャ・ラージ・バラブが公金を横領したとし、家族全員の逮捕と財産没収のために兵を送ったが、息子のクリシュナ・ダースはカルカッタのイギリス人居留地に逃げ込まれてしまった。 当時、イギリス東インド会社とフランス東インド会社はそれぞれ対決に備え、カルカッタとシャンデルナゴルの要塞を強化していたが、シラージュ・ウッダウラはこれに不満であり、両者にただちに工事を中止するように要求した。また、イギリスにはイギリス東インド会社の職員が行ってきた勝手な私貿易がベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、会社社員の私的貿易分の関税支払を要求するとともに、カルカッタ逃げたクリシュナ・ダースの引き渡しも要求した。 フランスはシャンデルナゴルの要塞工事の中止要求に従う意向を示した。だが、イギリスはこれらの要求を拒否し、シラージュ・ウッダウラの使者を追い返したばかりか、その書簡を公然と破り捨てる行動をとった。イギリスは太守の命令を無視し、その主権に対して正面から反抗する姿勢を示した。
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