大判の鋳造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/10 14:43 UTC 版)
判金師らが規定品位に調整された金合金を槌で打ち延して判金が作製された。工程はほぼ小判製造に準じ、仕上がった判金は色揚げされ、検定極印が打たれた後、最終的に墨判が行われた。 鋳造された大判は掛目を改められた上で金箱に収められ封印し江戸城蓮池の御金蔵に上納、収蔵された。 天正大判および慶長大判は京都の上京柳原(京都市北区岩栖辻子)の後藤宗家において鋳造、墨判されたが、明暦大判は江戸城三の丸、元禄大判以降は専ら江戸において鋳造された。正徳5年(1715年)には京橋銀座のある新両替町一丁目に屋敷を拝領して後藤役所が設けられ、明治維新まで継続した。 天正大判および慶長大判は判金師らが自宅で延金とした判金を後藤役所が検定して、極印および墨判を行う「手前吹」形式であったが、元禄大判からは幕府の指示により職人らを大判座吹所に集めて鋳造を行う「直吹」方式となった。明暦大判鋳造も江戸城の吹所に集められて行われた点では直吹方式に近い。 大判の吹替えが行われる度、後藤家当主は麻裃で勘定所に出頭し、勘定奉行宛の法度書に誓紙血判を行った。手代、職人らも血判起請文を作成した。鋳造期間中に職人らには鑑札が交付され、職人が吹所に出入りする際は裸体にされた上、後藤手代、勘定衆により厳重な身体検査を受けた。
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