城柵と蝦夷(俘囚)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)
城柵とは柵戸の拠点であるのみならず、蝦夷の支配という役割も担っていた。これもまた、他の国衙にはみられない城柵固有の役割である。朝廷と蝦夷の関係は端的に言えば朝貢関係をとるものであり、城柵を通じた蝦夷との関係は「饗給(撫慰)」、「征討」、「斥候」の3つの様態に集約された。これは、蝦夷支配のために辺遠国(辺要国とも)である陸奥・出羽・越後の3か国の国司にのみ付与された権限である。城柵をめぐる政策にとって、柵戸の移住と郡設置による「面」的な支配は一体的に遂行されたものだが、同時に城柵を拠点として個別の蝦夷集団と朝貢関係を結ぶ「点」的な支配政策もまた、継続して行われていたのである。 朝廷が本州北東部への征服事業を進める中で、蝦夷とは時に激しい対立をもたらし、最終的に「三十八年戦争」を惹起していくことになるが、その間常に対立関係にあった訳でなく、また軍事的な緊張期にあっても全ての蝦夷と対立した訳ではなかった。したがって朝廷側に帰属を求める蝦夷の集団も少なくなかったのである。彼らは産物を貢納する見返りとして饗宴を受け、鉄器や布などの産物、あるいは食糧を得たり、朝廷の政策に協力して位階や姓を授かるなどの対価を得た。このような朝貢によるゆるやかな支配は、政治的な上下関係が規定されるものの、両者を一種の経済的な交易関係に結び付けるものであると言えた。しかし、このような関係は流動的で、いったん利害が対立すると容易に敵対状態にも転じうる不安定なものでもあった。また、経済的な「交易」と表現したものの、両者の関係が対等でない以上、時に略奪に近いものでもあったようである。しかしながら饗給の実施は、朝廷による硬軟織り交ぜた蝦夷支配政策の「軟」の性格をあらわしたものであると言える。 なお、「俘囚」とは朝廷に帰服した蝦夷全般を指す場合もあるが、より狭義には個別に朝廷と服属する関係を結んだ蝦夷のことであり、部姓を与えられて多くは城柵の周囲に居住した。集団で朝廷に服属したものは「蝦夷」という身分として、本拠地の地名+「君」(あるいは「公」)の姓を得(例:伊治公呰麻呂、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ))、多くは従来からの居住地に留まった。城柵の設置は、本州北東部における在地社会の再編ももたらしたのである。また、服属した蝦夷の軍は「俘軍」として、しばしば朝廷側の武力として活動したが、前述の通り朝廷と蝦夷の利害関係は流動的であったため、時に敵対する諸刃の刃ともなった。 一方、饗給の実施は、その物資を供給しなければならない諸地域にとって莫大な負担を強いるものであった。 養老6年(722年)、朝廷は饗給に用いる布を調達するため、陸奥按察使管内(石背国・石城国再併合後の陸奥国と出羽国)を対象に、調・庸を停止して、代わりに一人あたり長さ一丈三尺、幅一尺八寸の布(それまで調庸として貢納していた布の4分の1の面積)を納めさせることとした。これは両国の住民にとって調庸の負担を大幅に軽減させる民力休養策であると同時に、徴発した布は蝦夷に支給する「夷禄」として用いられた。この政策変更の背景には、養老4年(720年)に起きた蝦夷の大反乱(海道の蝦夷が反乱し、按察使の上毛野広人が殺害された。同年には九州で隼人の反乱も起きている)が挙げられる。史上初めて蝦夷の大反乱として記録されたこの出来事は、朝廷に大きな衝撃を与え、これまで進めてきた征服事業に抜本的な見直しを迫ることとなった。すなわち、それまで中央政府が収奪してきた調庸を放棄し、新たに管内で納めさせた布を全て蝦夷への饗給に充ててまでも、支配の安定を目指したのである。
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