国際派と所感派の党内対立
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「国際派と所感派の党内対立」の解説
全学連の結成によって、日本共産党中央と学生党員との対立は再度表面化した。学生のエネルギーが高揚する場面では党中央は中心的な学生党員に「極左トロツキスト」「全学連党的傾向」「グループ主義的偏向」「インテリゲンチャ的傾向」などの批判を加えて闘争の拡大に待ったをかけるようになった。前述の大学法反対闘争は、全学連中執が党中央からの制動を受けている最中、中央からの圧迫のない九州の学生が口火を切ったものであった。 当時日共中央は、学生運動を階級闘争そのものではなく革命の条件づくりであると捉え、民主統一戦線の一翼としての地域人民闘争に重点を置いていた。一方で全学連の指導部は、学生が社会的階層として存在している以上は学生運動は反体制運動となり得るという「層としての学生運動論」、学生は労働者と同盟し先んじるという「先駆性理論」を支柱としていた。後に現れる「街頭激突主義」はこの理論が現実に現れたものであるとされる。 1950年1月7日、コミンフォルムが日本共産党を批判、日共はこれに反論する「所感」を発したが、批判を利用して党中央の権威主義的傾向を批判する者も現れた。3月、全学連中央は日共中央を批判的に総括した論文「最近の学生運動」を発表した(いわゆる「全学連意見書」)。これは宮本顕治の「ボルシェビキ的指導」を賛美し、野坂参三、伊藤律ら所感派を批判する内容であった。この意見書はまた、宮本の指導で闘争に立ち上がろうとする全学連に対して西沢隆二、御田秀一らが「極左トロツキスト」「全学連党的傾向」「ストライキマン的偏向」と批判し、大学法案反対ゼネストに対して志賀重男が「大衆から浮く」としてゼネストを禁止したこと、党中央の官僚主義的傾向、反米・帝国主義打倒を強調しないことを右翼日和見主義的であると批判した。4月10日には早大細胞が、2・1ゼネスト中止と地域人民闘争をチトー主義的と批判する「早大意見書」を発表した。5月5日、党内の攪乱を企図しているとして日共東京都委員会は「全学連細胞と早大細胞、東大細胞を解散させた。日共中央は6月27日の臨時中央委員会で中央に批判的な学生党員38名を除名、東大教養学部細胞を解体した。全学連はGHQ・政府と日共中央という二つの敵と対峙することとなった。こうしたなかで全学連は、前述のレッドパージ反対闘争に突入した が、党中央はこの闘争を全く評価しなかった。このころ主流派=所感派と反主流派=国際派との党内闘争が激化する中で、所感派にとっては自派に従わない者はすべて「反党分子」であった。学生党員は党上層部とは相対的に独立して行動していたが、党主流に敵対する者とみなされた。このころの全学連グループには武井のほかに力石定一、安東仁兵衛、沖浦和光、戸塚秀夫、高沢寅男、上田耕一郎、不破哲三、土本典昭らが存在した。党中央と全学連との対立は理論・運動の両面で明らかとなり、5月の第4回大会では中央からの「身のまわり主義と地域人民闘争主義」の意見をはねのける姿勢を打ち出した。反党分子とされ除名された学生党員たちは1950年末に反戦学生同盟(AG)を結成し全面講和・反戦・反米運動を行った。このころ、党内ではスパイ査問が激化、全学連でも反中執派の伝裕雄都学連委員長らによる中執派の罷免運動が激化していた。
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