四国のライバル・上甲正典監督との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:01 UTC 版)
「馬淵史郎」の記事における「四国のライバル・上甲正典監督との関係」の解説
明徳義塾と同じ四国地方で、かつて愛媛県の甲子園強豪・常連校の宇和島東・済美の各野球部監督を務めた上甲正典は馬淵にとって最大のライバルだった。それと同時に二人は愛媛県南予出身で同郷という縁も有って、大変仲の良い親友同士でもあった(年齢は馬淵が8歳年下)。 生前の上甲は馬淵について、「誉めるところはあっても、けなすところの無い男です。甲子園での実績も素晴らしいものがあります。勝負に対する強い思いや、はっきりした言動で世間では誤解されている部分もあるようですが、先輩への気遣いや生徒への思いなど感心する事が多く、深く付き合えば彼の男気を感じるはずです」とコメントしている(愛媛新聞インタビュー)。 しかし、上甲は2014年9月2日に胆管癌のため67歳で逝去した。その亡くなる1週間前の8月26日、入院中の上甲は長女に「馬淵君に会いたい」と懇願した。馬淵は上甲の病室へ駆け付け、酸素チューブを付けベッドに横たわる上甲監督と、殆ど野球の会話を約1時間半し続けていたのが、二人にとって生前最後の対面となった。上甲の訃報を聞いた直後の馬淵は「見舞いに行った時、相当しんどそうだった。日本の高校野球界にとって惜しい人を失くした。あんな人はいない。僕も心にぽっかりと穴があいた状態。つらい」と無念の想いを語っていた。 2日後の同年9月4日、松山市で営まれた上甲の告別式で馬淵は、「上甲さん、今日は悲しい。悔しい」で始まり、上甲監督から「鏡の前で笑う練習をしろ」と勧められたが「不器用な僕に『上甲スマイル』みたいな事は出来ませんでした」等と想い出を語り、さらに2002年夏の甲子園選手権で明徳義塾が初の全国制覇を達成した際「上甲さんも自分の事のように喜んでくれた」と、終始男泣きしながら弔辞を読んでいた。 上甲が亡くなって半年以上過ぎた頃、明徳義塾高校のグランドで練習風景を眺めていた馬淵は「上甲さんがおらんなって、張り合いがないんよ…」と、デイリースポーツの記者に対して寂しそうに語った。2004年センバツ大会では、上甲率いる済美高校が初出場でいきなり初優勝を達成。その同大会の準決勝では、明徳義塾と済美が甲子園球場で初対決。この試合が馬淵と上甲が監督として甲子園での最初で最後の対戦となった。準決勝の前夜には「夜9時頃に上甲さんから電話があってね。『サウナ行って、飯食おうや』って。互いに探り合いながら焼き肉を食べました」と二人で談笑したという。試合のスコアは6-7で、明徳義塾は済美に僅か1点差で惜敗し、決勝戦進出を逃した。その試合を述懐しながら馬淵は「上甲さんの執念が上やった。あの上甲スマイルが憎ったらしくて…もう1回、甲子園でやりたかった」と上甲の他界を偲んでいた。 2015年の7月上旬、夏の甲子園選手権・高知大会の予選前に、日刊スポーツの取材に応じた馬淵は、妻が運転する車内で記者に対し携帯電話を持ちながら「まだ消せんのよ」と、登録したままの上甲の電話番号を眺めつつ、「何か電話掛けたら上甲さんの声が聞こえるような気がして…『おーい、そろそろ練習試合やらんか』って」と記者に侘しげつつ呟いていた。 上甲の死から1年後の2015年9月5日、宇和島東・済美・明徳義塾と合計3校が揃っての追悼試合が開催され、馬淵も監督として参加した。 同年11月28日には「上甲正典前済美高野球部監督をしのぶ会」が愛媛県松山市のホテルで行われ、馬淵のほかに智弁和歌山監督の高嶋らが発起人となり、約250人の高校野球関係者が出席した。
※この「四国のライバル・上甲正典監督との関係」の解説は、「馬淵史郎」の解説の一部です。
「四国のライバル・上甲正典監督との関係」を含む「馬淵史郎」の記事については、「馬淵史郎」の概要を参照ください。
- 四国のライバル・上甲正典監督との関係のページへのリンク