古代宗教のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:34 UTC 版)
「アエギュプトゥスのキリスト教化」の記事における「古代宗教のその後」の解説
詳細は「en:Decline of ancient Egyptian religion」を参照 古代エジプトの宗教は、グレコ・ローマン時代においては廃絶や崩壊などという危機に陥ることはなかった。アウグストゥス帝は新しい神殿をアエギュプトゥス属州に建て、古代エジプトの既存の神殿を修復したり、後の皇帝もアウグストゥスよりも小さいスケールではあるが同様な庇護を行った。しかし、ネルウァ=アントニヌス朝の皇帝がエジプトの宗教に対して寄進を行い、庇護したのを最後に衰退する。その後のローマ皇帝たちも寄進をしなかったわけではなかったが、軍人皇帝時代(三世紀の危機)とドミナートゥス時代以降は皇帝たちの宗教に対する庇護も薄れた。しかし、最終的に古代エジプトの宗教の破滅を招いたのは、アエギュプトゥス属州におけるキリスト教の出現とその浸透である。 キリスト教は時に非キリスト教(異教)を徹底的に排除し、抑圧した。古代宗教の最終的な破壊は、「悪魔を根絶する」という意図で異教徒を徹底的に攻撃、抑圧、そして最終的には断絶させたキリスト教の司祭、主教、修道士らに起因している。423年には大規模な騒動があった。6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はキリスト教の熱心な信者であり、異教徒を迫害した。 その後、神殿が荒廃し、エジプト全土の宗教構造が変化するにつれ古代の宗教は徐々に消え去った。また、この時代では古代のファラオ達によって建設された神殿は荒れるに任され、その存在も忘れ去られていく。また、一部の村落において存続していた儀式などの行事を大いに排除した。古代エジプトの文化は今では一部の習俗に名残をとどめるのみとなっており、エジプト語(コプト語)に至っては、コプト正教会とコプト典礼カトリック教会の典礼言語として残っている他、上エジプトの隔絶された地域にあるサイード人村落に僅かに母語話者が残るのみとなっている。 古代エジプト文化の最後の名残の一つであるコプト語は、キリスト教化と後のイスラーム化を生き延び、後期エジプト語の遺風を残した。コプト語は、後にエジプト学者に古代エジプト語の音源に関する重要な洞察を与えたと考えられている。 しかし、古代後期には、エジプトの宗教の影響は他の宗教にも現れた。ギリシャ人とローマ人はエジプトをエキゾチックで神秘的なものとみなし、国とその宗教に対するこの魅力は地中海周辺の拡散にいくらかつながった。イシスやベスのような神々は地中海の交易によって他地域にも広がりを見せ、地中海一帯はもちろん、ブリタンニアにおいてもイシス信仰の痕跡は確認されている。 また、古代エジプトの宗教は、1970年代に出現した現代「ケメティズム(英語版)」によって復興が試みられている。ケメティズムの信者は、一般的にマート、バステト、アヌビス、セクメト、トートなどを崇拝している。
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