原料の産地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 09:04 UTC 版)
駿河国内における三椏の産地は『駿河記』に記されている。『駿河記』の安倍郡の項に三椏の産地が八箇所記され、志太郡の項には紙と茶を指して「此二品名産にてことに紙は多く漉出し近郷の市町に売粥く」とある。また「楮・桑を用ひ漉ゆえ紙の性剛し、近頃は三椏を少し加ふ」(伊久美郷)とあり、笹間郷の三椏の産地を六箇所記している。庵原郡は上述した庵原郡巻之二の『駿河記』の記録が残り、他「近年此辺山畑に多く植、紙料とす」とある。 富士郡は富士郡巻之五にて上稲子で三椏が採れることを記し、「紙 諸品 大宮辺・稲子・西山◯山辺、総て諸村近年さかんに漉出す」とある。また「結香方言三椏と云、山村近年多く種植して紙料とす」とある。また富士郡における転機として、以下の話が知られる。富士郡原村(富士宮市)の名主に渡辺定賢がおり、当地の旗本の手代と富士山麓を歩いていたところ三椏の群生地を発見し、紙の原料として用いられるようになったという。 紙漉きの隆盛には原料の入手が容易であることも重要であり、『駿河記』にあるように生産地周辺で三椏の植え付けが盛んになっていた。例えば庵原郡吉原村における三椏の植え付けを示す史料が残り、また庵原郡山原村の史料には「猶又其外三ツ又等植出し」とある。天保7年(1836年)の文書に「三椏植付」とあり、また嘉永6年(1863年)の文書に「三椏等かれ減しかり入手当無之、誠二必至差支」とあり、いずれも庵原郡宍原村に関するものである。このように庵原郡・富士郡各地で三椏が植え付けられ、駿河半紙の生産が行われていた。
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