創刊以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:05 UTC 版)
広島では明治時代以降新聞が発刊されたが、長らく定着した物は無かった。 1879年(明治12年)7月8日に、坪村梅坪ら数名が広島初の日刊紙「広島日報」を発刊。1881年(明治14年)7月1日に「広島日報」は同進社発行となり、これまでの発刊番号583号を引き継ぐ形で発行を継続した。しかし、1882年(明治15年)4月6日に発生した板垣退助の岐阜事件報道の内容に問題があった為、1882年(明治15年)5月4日に紙齢801号で販売禁止にされた。 発刊禁止された同進社が、1882年(明治15年)9月1日に発刊したのが「芸備日報」であり、それが「芸備日日新聞」のルーツになった。1884年(明治17年)12月に、団体社員の宇品港(現在の広島港)建設の登用。また士族授産の目的も一段落付き、経営が困難であった事より「芸備日報」は一度廃刊した。 同進社は士族授産団体で、宇品港建設の時には立憲帝政党の御用紙的な役割を果たした。 1886年(明治19年)2月に同進社は、再び「芸備日報」を発刊。しかし、発行部数・広告共に少なかった為、経営が成り立たない事から、新聞事業は授産所の会計と独立した形に改められ、芸備日報社に事業譲渡した。 分社化後に、時の伊藤博文内閣が、新聞を通じて県の令達公布を認めたので、官公吏も新聞購読する様になった事で、以前の500-600部から1500-1600部に部数増加した。しかし、大体は国権主義的傾向だが条約改正論者も居たことで足並みが揃わず、それらの理由から、経営は困難になっていた。 そのことから、新聞の販売を早速社に委任。広告料も30円で売りつけた事で、芸備日報社は執筆のみを行い、売上額に応じた新聞代及び広告料を受け取るのみになっていた。 1888年(明治21年)に、芸備日報社の早速社への負債600円を同進社が支払い、再び「芸備日報」は同進社が発行する事になった。その時の意図として、政府の有力者が条約改正する為、機関誌として「芸備日報」を買収する計画があったと言われている。しかし、井上馨外務大臣が辞職。予定が白紙になった。 その後も経営の目処が立たず、1888年(明治21年)6月30日に芸備日報社を債権者の早速社の早速勝三に引き渡した。
※この「創刊以前」の解説は、「芸備日日新聞」の解説の一部です。
「創刊以前」を含む「芸備日日新聞」の記事については、「芸備日日新聞」の概要を参照ください。
創刊以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 09:14 UTC 版)
「ファウスト (文芸誌)」の記事における「創刊以前」の解説
直接の母体となったのは講談社文芸図書第三出版部が発行していた小説誌『メフィスト』だが、売上不振により、講談社ノベルスから新刊を出すことができなくなっていた佐藤友哉に小説を発表する場を与える名目で、2002年7月に大塚英志と東浩紀の2人が編集する文芸誌・批評誌として創刊された『新現実』(角川書店)と、2002年11月の第一回文学フリマで販売された同人誌『タンデムローターの方法論』が、本誌の原型となっている。特に後者は、佐藤友哉と西尾維新が小説を書き、舞城王太郎が挿絵を付けた太田克史編集のコピー誌で、これに周辺の若い世代の書き手が加わっていくことにより、初期『ファウスト』のコンセプトが固まっていく。
※この「創刊以前」の解説は、「ファウスト (文芸誌)」の解説の一部です。
「創刊以前」を含む「ファウスト (文芸誌)」の記事については、「ファウスト (文芸誌)」の概要を参照ください。
- 創刊以前のページへのリンク