初期の経歴と『ゼンダ城の虜』
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「アンソニー・ホープ」の記事における「初期の経歴と『ゼンダ城の虜』」の解説
セント・ジョンズ・スクール、マールバラ・カレッジ、オックスフォード大学ベリオール・カレッジで学んだ。法廷弁護士を目指し、1887年、ミドル・テンプルによって認定を受けた。実習期間の指導にあたった後の首相ハーバート・ヘンリー・アスキスはホープを天性の弁護士と考えており、ホープが文筆の道に進むことを決めたことを惜しんでいる。 法曹時代のホープは仕事に長時間を拘束されておらず、また当時フリート・ストリートの聖ブライド教会の教区牧師であった寡夫の父と同居していたため、著述の時間があった。作品を掲載してくれる定期刊行物はあったが、本として形にするには自費出版によらざるをえなかった。こうして第一に出版されたのが A Man of Mark(1890年)である。この作品は架空の国家オーリータランド共和国を舞台とする政権争いをユーモアを交えて描いたもので、『ゼンダ城』の原形と見ることできる。その後も長短の小説を書き続けた。1891年には Father Stafford を出版し、1892年の Mr. Witt's Widow はそこそこの成功を収めた。1892年の総選挙にウィカム区の選出議員として自由党から立候補したが、落選した。1893年、3作の長編 (Sport Royal, A Change of Air, Half a Hero) と『ウェストミンスター・ガゼット』を初出とする続き物のスケッチを発表した。このスケッチは1894年に The Dolly Dialogues として1冊にまとめられ、挿絵をアーサー・ラッカムが担当した。Dolly は出世作となった。A・E・W・メイスン(英語版)はこの作品における登場人物同士の言葉のやりとりを「今日のロンドンの風俗の真に迫っており、社会史家にとって無視すべからざるものである」と評価し、その筆致には「繊細な機智(と)悲嘆の影」があると述べた。 ホープが『ゼンダ城の虜、とある英国紳士の人生における三か月の経緯』のアイデアを思いついたのは1893年末にロンドンで散歩していたときだった。ホープはこの作品の初稿を1か月で書き上げ、翌年4月には出版にこぎつけた。物語の舞台としたヨーロッパの架空の王国「ルリタニア」は、その後「小説家、劇作家が近代を舞台とする宮廷ロマンスを描く際に用いる世界背景」を意味を持つようになる。『ゼンダ城』はたちまちにして成功をおさめ、機転に富むその主人公、快男児ルドルフ・ラッセンディルは広く知られる創作上の人物となった。『ゼンダ城』はメイスンの他、文芸批評家アンドリュー・ラングやロバート・ルイス・スティーヴンソンの賞賛を受けた。『ゼンダ城』が好評を博したことで、ホープは「将来に待っていたであろう法曹としての輝かしいキャリア」を捨て専業作家となることを決意したが、しかし「作家としてはこの一冊を超える成功をついにおさめることができなかった」。同じく1894年、政治の世界を物語の舞台にした The God in the Car を上梓した。
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