兵士の配置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 02:02 UTC 版)
火縄銃は、戦国時代中期以降、足軽の主要武器の一つとしてその比重を増していった。日本の戦国時代から江戸時代においては備ひとつに対し、鉄砲組(20 - 50名)を1、2組配しているのが基本である。戦闘開始時や、勢いに乗り突進してくる敵兵に対し一斉射撃を浴びせ進撃を止まらせるときなどに使用された。兵士同士が密集したか否かについては議論がある。火の粉が飛び散る中で火薬を使用するので暴発しかねず、相互に安全な距離を取ったという見解がある。 二段撃ち:2列横隊に並び、前列が片膝をつき、後列が直立して射撃する。佐々成政が考案したという記録が残っているが、実際に採用されていたのか、上記の議論上問題がある。 三段撃ち:長篠の戦いで織田軍が採用したという著名な配置。雑賀衆が遅くとも1568年(永禄11年)あたりまでにはすでに実戦で用いていたという説もある。この三段撃ちについても大議論がある。中国明末の崇禎11年(1638年)刊行の畢懋康『軍器図説』に収められた「輪流放銃図・輪流進銃図・輪流装銃図」には15人の人物が5人3列に並び、三段撃ちをしている図が描かれている。16世紀までの明の軍学書に同様の記載が見られないことから、文禄・慶長の役で日本軍と戦った明軍が日本の火縄銃を大量に鹵獲するとともに投降した日本人(降倭)から運用法を学び、楊応龍の乱平定などの実戦機会を経て、三段撃ち等の日本式火器使用法を取り入れていったのではないかとの見方もある。 繰り出し:三段撃ちの要領で、さらに銃列を前進させる戦術。薩摩の島津氏が用いて、関ヶ原の戦いで中央突破に成功している。 1人の射撃手に数丁の火縄銃と数人の助手が付き、射撃手が射撃している間に助手が火縄銃の装填を行う方法があり、これにより素早い連射が可能である。これは鉄砲傭兵集団としてその名を知られた雑賀衆、根来衆の得意とする戦術であった。石山合戦で本願寺側に付いた彼らは、織田勢を大いに苦しめた。 この射撃手・助手を分業する射撃運用法を烏渡しの法と上杉流軍学では称したと伝えられ、また後世紀州徳川家においては薬込役という、御庭番の前身である職名にその痕跡を残している。
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