側用人との違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
越後長岡藩では、用人と側用人を、役職名として常に、かつ明瞭に分離していたかどうか定かでないが、江戸武鑑に『附』とある用人は、諸藩との比較上で側用人たる役目を担っていたと考えられる。なお、『長岡市史』では側用人職は登場しない。 『附』とあるは、江戸に定府して、嫡子および正室の伝奏を行い庶務を司った。幕府の広敷用人の役割りも併せ持っていたとする説もある。ただし、江戸武鑑上においては『附』は世子がいる藩で見られることが多く、世子だけでなく藩主舎弟の項目にも掲載されることもある役職である。 なお、江戸武鑑上において長岡藩の場合は当初は附役と用人は別々に登用していたが、財政難で個々に登用できなくなったためか、少なくとも牧野忠鎮の附役以降は定府の奉行か用人が兼務することが慣例となっている。 なお、『長岡市史』では若殿様附、奥様附、大殿様附があるとしているが、煩わしいとの理由で省略されている。 支藩の与板(小諸)・三根山では、初期には用人・側用人制度がなく、本藩の長岡を模してこれらの職制を導入したとするのが通説的である。これらでは、用人が家老職の補佐機関(長岡の中老・奉行に相当)としての権能を併せ持った。また用人が加判の列に加えられることもあり、番頭職より格上であるのが特徴的である。
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