伊達政宗との抗争
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「佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「伊達政宗との抗争」の解説
この頃になると、奥州では蘆名氏が盛氏の死後、当主が次々と早世したため勢力が衰退した。蘆名氏の家督問題では、義重は幼少の蘆名亀王丸(亀若丸)をいち早く支持して、伊達輝宗が次男・小次郎を送り込もうとするのを阻止し、蘆名家中における影響力を拡大した。輝宗の後を継いだ伊達政宗は先の御代田合戦で敗れた田村清顕の娘婿であり、田村氏の支援と佐竹氏の北上を警戒する立場から次第に義重との対立を深めていくことになる。 天正13年(1585年)には伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し、人取橋で会戦する(人取橋の戦い)。武力・兵力共に優位に立つ義重は戦いを有利に進めるが、あと一歩のところで留守中の常陸国で江戸氏らが不穏な動きを示したため撤退し、連合軍もそれぞれ撤退した。この合戦は、後に政宗が江戸城で将軍・徳川家光の饗応を受けた時、生涯の大戦と話したとされる。 天正14年(1586年)、二本松城が開城して二本松氏が事実上滅亡したのを機に、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏との間で和議が結ばれた。 天正15年(1587年)には、次男の義広を蘆名氏の養嗣子として入れることで、政宗と対抗しようとした。しかし、父の遺志を継いで弟の小次郎を養嗣子にしようとした政宗はこれに反発する。 天正16年(1588年)、奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦う。しかし兵力で圧倒的優位にありながら、逆に諸大名の連合軍だったために諸氏の利害が対立して軍が機能せず、義重は政宗に勝利することもできずに岩城常隆の調停で和睦することを余儀なくされた(郡山合戦)。 天正17年(1589年)、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直、北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。同年、長男の義宣に家督を譲って隠居したが、なおも実権は握ったままであった。
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