伊達政宗との抗争とは? わかりやすく解説

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伊達政宗との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:41 UTC 版)

佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「伊達政宗との抗争」の解説

この頃になると、奥州では蘆名氏が盛氏の死後当主次々と早世したため勢力衰退した蘆名氏家督問題では、義重は幼少蘆名亀王丸(亀若丸)をいち早く支持して伊達輝宗次男小次郎送り込もうとするのを阻止し蘆名家中における影響力拡大した。輝宗の後を継いだ伊達政宗先の御代田合戦敗れた田村清顕娘婿であり、田村氏支援佐竹氏北上警戒する立場から次第に義重との対立深めていくことになる。 天正13年1585年)には伊達氏対立する二本松氏救援名目蘆名氏との連合軍結成して奥州出陣し、人取会戦する(人取橋の戦い)。武力兵力共に優位に立つ義重は戦い有利に進めるが、あと一歩のところで留守中の常陸国江戸氏らが不穏な動き示したため撤退し連合軍それぞれ撤退した。この合戦は、後に政宗江戸城将軍徳川家光饗応受けた時、生涯大戦話したとされる天正14年1586年)、二本松城開城して二本松氏事実上滅亡したのを機に伊達氏佐竹氏蘆名氏との間で和議結ばれた天正15年1587年)には、次男義広蘆名氏養嗣子として入れることで、政宗対抗しようとした。しかし、父の遺志継いで弟の小次郎養嗣子にしようとした政宗はこれに反発する天正16年1588年)、奥州諸大名連合して再び政宗と戦う。しかし兵力圧倒的優位にありながら逆に諸大名連合軍だったために諸氏利害対立して軍が機能せず、義重は政宗勝利することもできずに岩城常隆調停和睦することを余儀なくされた(郡山合戦)。 天正17年1589年)、蘆名義広摺上原の戦いにおいて伊達氏大敗喫し白河結城氏石川氏といった陸奥南部諸大名伊達氏寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ滅亡の危機に立たされた。同年長男の義宣に家督譲って隠居したが、なおも実権握ったままであった

※この「伊達政宗との抗争」の解説は、「佐竹義重 (十八代当主)」の解説の一部です。
「伊達政宗との抗争」を含む「佐竹義重 (十八代当主)」の記事については、「佐竹義重 (十八代当主)」の概要を参照ください。

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