伊達政宗との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 07:33 UTC 版)
政宗は清十郎という16歳の少年を、氏郷の家臣の元に小姓として奉公させる形でスパイ活動を行わせ、隙を伺い氏郷を暗殺させようとした。しかし、清十郎が父親に送った手紙が関所の検閲にかかったことで事態が露見することとなり、清十郎は投獄された。氏郷は命を捨てて主命を遂行しようとした清十郎の忠義に感服し、その忠勤を賞賛して罪を赦し伊達家へ返したと伝わる(『常山紀談』)。 氏郷が会津に入ると、隣国の政宗と領地の境界をめぐって度々対立した。ある時、政宗は氏郷領内の安達が原の川を挟んだ向かいにある黒塚は自分の領土だと難癖をつけてきた。しかし氏郷は「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と拾遺和歌集に載っている平兼盛の歌を引用して自分の領地であることを主張し、政宗を黙らせた。 葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中、17日に舞野に着き、18日に政宗から朝茶の誘いを受け政宗の陣に行き、19日に高清水城に向かう約束をした。しかし茶席で政宗に毒を盛られたことを知り、帰って急ぎ毒をはいた。政宗の真意を疑った氏郷は、その日にわかに兵を出して本街道を北に向かい、街道筋に放火しながら進んだ(『氏郷記』)。
※この「伊達政宗との関係」の解説は、「蒲生氏郷」の解説の一部です。
「伊達政宗との関係」を含む「蒲生氏郷」の記事については、「蒲生氏郷」の概要を参照ください。
- 伊達政宗との関係のページへのリンク