今城合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 09:40 UTC 版)
永禄2年(1559年)北原家中の騒乱の際に隆屋は島津氏を頼り島津義弘に謁見、隆屋は大河平の旧領をそのまま与えられる。永禄5年(1562年)隆屋が病没すると、その隙に乗じて伊東義祐が450人の兵で大河平城を攻めた。しかし後を継いだ嫡孫の隆利(隆屋の嫡男・隆充の嫡子)はこれを守る。義弘はこの働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。 その後、隆利は大河平城の西方に今城を築き自前の兵と島津からの派遣兵300人と共に入るが、永禄6年(1563年)1月に隆利も病没する。その後を隆利の弟の隆次が継ぐが、飯野城に住まう主君・北原兼親との関係が些細なことから不和となる。兼親は義弘に「飯野城と今城は余り遠くないため、すぐさま今城を救援できるので今城の守兵は撤収した方がよい」と進言したため、今城の派遣兵は撤収してしまう。伊東義祐はこれを聞き及び、永禄7年(1564年)5月に今城を攻撃する。隆次は叔父の大河平隆堅や同じ菊池氏庶流の八重尾氏などと共に奮戦するも、城兵130余人全員が討ち死にする。 その後、兼親では真幸院は守れないとの理由で、飯野城には島津義弘が入るが、永禄11年(1568年)に伊東氏が相良氏と共に、菱刈氏の大口城攻略中で義弘不在の飯野城を攻略しようと計画しているのが発覚。それを義弘に知らせたのが球磨皆越の地頭・皆越六郎左衛門の妻であり、その妻は隆次の姉のナミであったことから、六郎左衛門に大河平氏を継がせて、名も大河平隆俊と改めさせ大河平氏の旧領を与えた。 なお、今城が落城した際に6歳だった隆堅の子・隆重は家人に救いだされていたため、隆俊の養子となり大河平家を継いだ(但し『本藩人物誌』は隆堅の孫の隆商が養子となったとし、後述の系図もそれに準拠する)。
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