京姫【キョウヒメ】(草花類)
登録番号 | 第15039号 | |
登録年月日 | 2007年 3月 15日 | |
農林水産植物の種類 | スターチス | |
登録品種の名称及びその読み | 京姫 よみ:キョウヒメ | |
品種登録の有効期限 | 25 年 | |
育成者権の消滅日 | ||
品種登録者の名称 | 進藤俊英 | |
品種登録者の住所 | 山梨県北杜市小淵沢町8098番地 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | 進藤俊英 | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は、育成者所有の育成系統どうしを交配して育成されたものであり、花冠の色が明黄、がくの色が鮮紫ピンクで、中肋部に鮮赤紫が入る切花向きの品種である。草丈は中、花序の数は極少である。葉長はやや短、葉幅はやや広、葉の形は楕円形、色は淡、毛の有無は無、葉縁の波打ちは無又は極弱、葉の切れ込みの有無は無である。葉柄の有無は有、長さ及びアントシアニンの着色程度は中である。茎出葉の有無は無、花茎の長さはかなり長、太さは中、毛の密度は無又は極粗、翼の幅は無又は極狭、波打ちは無又は極弱、一次分枝のたく葉の長さはやや短、花序のタイプはⅣ型、分枝の程度は弱、方向は横張、花数は多である。がくの長さはやや短、直径はやや長、タイプはⅡ・Ⅲ型、色は鮮紫ピンク(JHS カラーチャート9505)で、中肋部に鮮赤紫(同9507)が入る。花冠の形はⅣ型、多少は多、大きさはやや小、色は明黄(同2505)である。花の香りは有である。「ダイレディー ローズ」と比較して、葉縁の波打ちが少ないこと、がくの色が鮮紫ピンクであること等で、「ブリリアントルージュ」と比較して、がくの色が鮮紫ピンクであること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は、平成12年に育成者の温室(山梨県北杜市)において、育成者所有の育成系統どうしを交配し、その実生の中から選抜、以後、増殖を行いながら特性の調査を継続し、15年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
京姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 15:58 UTC 版)
京姫(きょうひめ、1626年8月7日(寛永3年6月16日) - 1674年9月22日(延宝2年8月23日))は、尾張藩初代藩主・徳川義直の長女。広幡忠幸の正室。母は津田信益の娘であるおさいの方(貞松院)。幼名は鶴、後に岩、京。名は絲子(しこ)。法号は普峯院。
生涯
1626年(寛永3年)、名古屋城で誕生した。幼名はお鶴、ついでお京。不幸にも足がやや不自由であったが、母に似て美しく、和歌・管弦をよくし、書画にも巧みで、父義直から溺愛された。ために他国に嫁ぐことが極端にためらわれ、いたずらに婚期を逸していた[1]。
1649年(慶安2年)12月11日、八条宮智仁親王の三男でる幸丸と婚約する。翌3年(1650年)に父義直が没するが、その遺志により、1651年(慶安4年)、幸丸を名古屋に迎え、無事婚姻が成った。京姫は相次いで5人の女子を産んだ。長女・新姫は甥徳川綱誠の正室となった。次女以下4人は、皆兄徳川光友の養女となり、大名家に嫁いだ[2]。
幸丸は結婚前に元服して忠幸を名乗っていたが、1663年(寛文3年)、清華に列し、1000石を支給され、広幡忠幸となった。この時以降、忠幸は京に在って来宅しなかった。忠幸は京に愛人がおり、庶子をもうけたが、尾張家には報告しなかった。忠幸の死後にこれを知った光友は怒って、広幡家と義絶した[3]。
忠幸が1669年(寛文9年)に没すると落飾し、普峯院と号した。1674年(延宝2年)、死去。享年49。墓所は愛知県名古屋市の政秀寺[4]。
子女
次女以下は兄徳川光友の養女となる。
脚注
京姫(きょうひめ)
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「新プラモ狂四郎」の記事における「京姫(きょうひめ)」の解説
生徒副会長。学内では親衛隊も存在するアイドル的存在。後半から京四郎らと合流。
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