中日ドラゴンズ監督とは? わかりやすく解説

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中日ドラゴンズ監督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:49 UTC 版)

水原茂」の記事における「中日ドラゴンズ監督」の解説

1968年11月6日監督就任し1969年から1971年まで中日監督務める。就任時には中京財界要人複数従えそのこと球団内での立場強くした。在任中には4位、5位、2位優勝果たせなかったものの、星野仙一島谷金二谷沢健一といった若手選手育成心血注ぎ自身ヘッドコーチとして支え後継監督与那嶺要による巨人V10阻む1974年優勝土台つくった。だがその一方で1年目江藤愼一チームから放出している(3年目1971年62歳で開幕迎えたシーズンでの監督在任2011年高木守道就任するまで球団史最年長監督)。 水原の下でプロとして開花した星野は、ルーキーイヤーのある日巨人戦打ち込まれ敗戦投手となることがあった。星野首脳陣に「明日も投げさせてください。必ずリベンジしてみせます!」と直訴した。コーチたちは連投難色示したが、水原は「仙が投げたいといっているんだ、投げさせてやれ!」といって翌日巨人戦でも先発した連投星野はかなりいいピッチングをしたが、打線援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失った思いダグアウトうなだれている星野に、そっと手を差し出人間がいて顔をあげると水原であった水原星野に「よくやった。いいか、プロ世界というのは、やられたかならずや返す。この精神忘れるな。それがもてなくなったプロとしては終わる。今日のことは決し忘れるな。よくやった」といった。星野は「水原さんのあのとき握手してもらったときの手あたたかさ今でも昨日のことのようにおぼえてます。プロ精神自分水原さんから教えてもらいましたと言っている。 また、水原東映続いて中日でもユニフォームのデザイン担当している。当時MLBでは鮮やかなユニフォーム全盛迎えており、鮮やかな赤いユニフォーム纏い来日して日本ファン衝撃与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身1950年-1951年巨人球団前年に赤いユニフォーム失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は1966年までのロゴに近いデザインながら、髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更しており、この意匠その後ユニフォームにも継承されることとなる。 1971年10月4日公式戦終了とともに中日監督辞任し監督業からも引退することを表明しユニホーム生活に別れ告げた水原監督最終日第一試合相手ライバル三原率いヤクルトアトムズだった。この試合水原中日勝利し1971年の対ヤクルト戦成績1212敗2分の五分とした。第二試合大洋ホエールズ終了後水原ナインから胴上げされた。

※この「中日ドラゴンズ監督」の解説は、「水原茂」の解説の一部です。
「中日ドラゴンズ監督」を含む「水原茂」の記事については、「水原茂」の概要を参照ください。

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