中日ドラゴンズ監督
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1968年11月6日に監督に就任し、1969年から1971年まで中日の監督を務める。就任時には中京財界の要人を複数従え、そのことが球団内での立場を強くした。在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支え後継監督の与那嶺要による巨人のV10を阻む1974年の優勝の土台をつくった。だがその一方で1年目に江藤愼一をチームから放出している(3年目1971年の62歳で開幕を迎えたシーズンでの監督在任は2011年高木守道が就任するまで球団史上最年長監督)。 水原の下でプロとして開花した星野は、ルーキーイヤーのある日の巨人戦で打ち込まれ敗戦投手となることがあった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください。必ずリベンジしてみせます!」と直訴した。コーチたちは連投に難色を示したが、水原は「仙が投げたいといっているんだ、投げさせてやれ!」といって翌日の巨人戦でも先発した。連投の星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思いダグアウトでうなだれている星野に、そっと手を差し出す人間がいて顔をあげると水原であった。水原は星野に「よくやった。いいか、プロの世界というのは、やられたらかならずやり返す。この精神を忘れるな。それがもてなくなったらプロとしては終わる。今日のことは決して忘れるな。よくやった」といった。星野は「水原さんのあのときの握手してもらったときの手のあたたかさは今でも昨日のことのようにおぼえています。プロの精神を自分は水原さんから教えてもらいました」と言っている。 また、水原は東映に続いて中日でもユニフォームのデザインを担当している。当時MLBでは鮮やかなユニフォームが全盛を迎えており、鮮やかな赤いユニフォームを纏い来日して日本のファンに衝撃を与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身は1950年-1951年の巨人、球団も前年に赤いユニフォームで失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は1966年までのロゴに近いデザインながら、髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更しており、この意匠はその後のユニフォームにも継承されることとなる。 1971年10月4日に公式戦終了とともに中日監督を辞任し、監督業からも引退することを表明しユニホーム生活に別れを告げた。水原の監督最終日の第一試合の相手はライバル・三原率いるヤクルトアトムズだった。この試合に水原中日は勝利し1971年の対ヤクルト戦成績を12勝12敗2分の五分とした。第二試合の大洋ホエールズ戦終了後、水原はナインから胴上げされた。
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